小説 | ナノ

14 彼と彼女の関係

 時々、夢を見る。グラウンドで大地を駆ける夢。あの熱気と蜃気楼みたいに揺れるゴールラインを誰よりも早く駆け抜けたいと思い続けてきた、今も色褪せない夢。高校最後のインターハイ。出来ることなら全力で走って、空を仰ぎたかった。

「優花ちゃん、どこか行くの?」
「うん。ちょっと散歩」
「あぁ、リハビリ代わりって言ってたもんね」
 
 松葉杖を使わなくなって、寮での夕食後にリハビリ代わりにゆっくりと散歩をする事が日課になった。荒北君から届いたメッセージに気がついたのは丁度、夕食を食べ終わったあとで。慌ててメッセージを返せば、15分後にグラウンドで待ち合わせる事になったのはタイミングが良かった。
 Tシャツにジーパンという気楽な格好でふらりと外に出かけても、誰も何も疑わない。スマホだけをポケットに押し込んでスニーカーを履いた。
 右足はもう足首に痛みはなく、動かしにくさもない。それでも走る事や跳ぶことは禁止されていて、痛めた靭帯に負荷はかけられず、本当にただの散歩程度しか許されてはいないけれど、それでも松葉杖がいらなくなったことは大きかった。
 陸上部の練習グラウンドは寮からの坂道を上がると近道になる。松葉杖がいらなくなってから、誰もいない時間を見計らって眺めることが日課になっていた。
 誰もいない早朝や夕暮れ。散歩と称して懐かしいグラウンドに足を運んで、石を見つけては拾い集めた。どんなに掃除をしてもきりがないと嘆いた日々はそれほど遠いものじゃなかった。
 100メートルのコースに沿ってゆっくりと歩く。何度も、何度も繰り返し走ってきた場所。小石を拾いながら歩けば、すぐに両手がいっぱいになってしまった。拾い集めた小石をグラウンドの端に置けば、ここ数日でもかなりの量が集まったと思う。

「相澤」

 ざらついた砂の上を歩く足音に振り返る。ジャージ姿の荒北君が不機嫌そうな顔で立っていた。視線の先には私の集めた小石の山。睨むみたいに一瞥すると、小石を一つ拾うと掌の中で転がす。

「石拾いって地味だよな」

 グラウンドとは真逆。フェンスに向かって、不意に荒北君が向き直した。綺麗な投球フォームだと思った瞬間には小石は遠くへ飛んでいて。何かを確かめるみたいに肘を回す。

「……荒北君、野球やってた?」
「ン、まぁネ」

 手首をぷらぷらと揺らした荒北君はそれ以上、何も言わなかった。けれど、どこか懐かしむような、悲しそうにもみえる視線を向けられて、胸がぎゅっと苦しくなる。なんとなく気づいてしまった。荒北君は多分、野球を昔、やっていたんだと思う。高校1年生の頃の荒北君が不意に脳内をよぎる。もしかしてあの頃、荒北君が荒れていたのは…………。

「相澤。どーでもイイコト、考えンなよ」

 聞くな、とも踏み込むな、とも聞こえる言葉で荒北君はそれ以上の追求を拒む。本題はそこじゃないことくらいはわかっていたから、静かに頷けば、荒北君はゆっくりと歩き始めた。背中を追いかければ隣に並ぶのを待ってくれる。ゆっくり、ゆっくり、松葉杖を使っていた時と同じように。
 呼び出したのは荒北君で。なんとなく用件は想像がつかないわけじゃない。インターハイを目前に控えて、私の事を構ってる暇なんてないのはわかってる。

「荒北君」
「相澤」

 ……思いっきり声が被った。微妙な間があってからお互い黙り込んで気まずい空気になる。

「あの」

 荒北君が足を止めたタイミングで声を上げれば、不意に私の両頬を荒北君が片手で掴む。まるで、「喋ンナ」って言われている様な気がした。

「オマエさ。オレといる時、締まりのない顔でヘラヘラしすぎ」
「え?」

 面と向かって、いきなり悪口。抗議の声を上げようとすれば、頬を掴む指先に力が込められて言葉は発することができなかった。

「それから、無防備に泣きすぎィ」

 意地悪な言葉なのに、不思議と掴まれた頬から伝わってくる優しい温度。居た堪れなくなって視線を伏せようとしたら、そのまま掴まれた頬を上に向けられて視線は逸らせなかった。

「……もう、ほっとけネェんだけど、どうすりゃイイ?」

 困った様な呆れた様な、どこかめんどくセ!とでも言いたそうな顔。するりと掴まれていた頬から手が離れると、荒北君は大きすぎる溜息をついて、私を睨む。

「ン、言いたいコトそんだけ」
「そこで終わるの!?」

 思わず声を荒げてしまって、荒北君の袖を掴めばニヤっと笑った口角。

「で、相澤もなんか言いかけてたコト、あるんじゃナァイ?」
「さっきまで喋らせてくれなかったくせに!」

 袖を掴んでいたら、手をぱっと払われて。息を飲んだ瞬間、掴まれたのは私の手首だった。顔を上げれば、射抜くみたいな真っ直ぐな荒北君の視線。逃げる事も、誤魔化す事も、出来ないと思うし、したくはなかった。
 
 もう、1人でも大丈夫。風除けになってくれなくても大丈夫。一緒にいてくれてありがとう。

 言わなきゃいけないと思った言葉は、もう一つも声にならなくて、震える唇から出たのは考えていたのとは全然違う言葉だった。

「……私、荒北君のことが好き」

 手首を掴んでいた大きな手がゆっくりと、どこか躊躇いがちに私の指先に触れる。ほんの少しだけ荒北君が繋いでくれた人差し指に泣きたくなった。

「ン、知ってる」

 それだけ言うと荒北君は確かめるみたいに私の顔を覗き込むと額をゴツン、とぶつける。一瞬、鼻先を掠めたカサついた唇が「優花」って、小さな声で名前を呼んでくれたから、思わず繋いだ人差し指を力一杯握りしめてしまった。

「馬鹿力で握ンな!」

 間髪入れずに頭突きをした荒北君の顔は真っ赤で。けれど、振り払われた指先と引き換えに、ぎゅっと手を繋ぎ直してくれた。思わず嬉しくて、また力一杯握り返したら、今度は倍の力くらいで握り返されて、私の指からポキリと音が鳴る。一瞬で真っ青になった荒北君は、勢いよく手を離すと、私の指が一本ずつ無事な事を確かめて、ホッとしたように溜息をついた。
 コロコロと変わる荒北君の表情を見ながら、幸せで嬉しくて泣きそうになるのに。

 高校三年のインターハイ、最後の夏。青空の下、胸を張って、腕を振って、本気で走る姿を荒北君に見せたかった、というのが誰にも言えない私が描いていた夢だった。

 
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