隣の席の泉田君
暖かい日差しの中、柔らかい声が紡ぐ退屈な授業。エアコンで程よく温まった教室の窓際、前から四番目の席は瞳を閉じたら一瞬で深い眠りに誘われる。ただでさえ眠くなると有名な先生の授業は空腹も満たされた五限目には苦行でしかなく、誰かの過去の栄光も年号も全く興味がなければ頭の中にも入ってこない。頬杖をつきながら、ゆっくりと教室の中を見渡せば同じ様に睡魔に襲われている友人達の頭が揺れている。すでに戦うことすら諦めた者、かろうじて意識を保っている者、眠気と戦うべく何かを食べている者。もはや、私もあと数分もすればこのまま眠ってしまうんだろうなと半ば諦めかけたところで不意に隣の席に視線を向けて驚いた。真っ直ぐに伸びた背筋にぱっちりした瞳。長い睫毛は何本シャーペンの芯が乗るのだろう。
ほぼ壊滅状態に近い教室の中、隣の席の泉田君は1人だけ真っ直ぐに黒板を見て、先生の話を聞いていた。時折視線を伏せて、ノートにシャープペンを走らせる。え、今何かメモする様な話あっただろうかと思った時点で私が全く授業の中身が頭に入っていない事を自覚した。ツンツンした黒髪も去年は坊主だったから、随分伸びたなぁと思う。自転車競技部の主将を努める彼は、授業中居眠りをする事はあるのだろうか。そういえば席替えをしてから1ヶ月は経ったけれど、居眠りしている姿は一度も見かけた事はないかもしれない。
泉田君は真面目な人だ。授業の態度も良いし、課題提出もどちらかといえばクラスで一、二を争うレベルに早いし日直の仕事も部活が忙しい筈なのにサボった所を見たことがない。むしろ、寝坊して遅刻しかけた友人の分までやってくれていた話を思い出して、泉田君は良い人なのだと思った覚えがある。ぼんやりと泉田君の横顔を見ながら先生の声を遠くに聞く。何も頭に入ってこない年号はいつかの誰かの栄光で。そんな歴史的な物よりも、彼の睫毛が本当に長くて羨ましい。そんな事をぼんやりと考えていると、不意に私の短い睫毛がいつの間にか影を作って一瞬の眠りに落ちたらしく、頬杖をついていた肘がずるりと滑った。
「……っ!」
一瞬の焦りで頬杖が外れて、自分の手首が顎を打つ。ガタン、と揺れた机は割と大きな音を立ててしまって、教室の中が静まりかえる。まぁ、元々静かではあったけれど。
「ミョウジ、大丈夫か」
「はい、すみません」
明らかに寝落ちした瞬間を見ていた先生は半ば面倒くさそうに溜息をつくと黒板に向き直る。友人達の押し殺した笑い声が聞こえて、みんな同じ様に寝ていたくせにと軽く睨めば、隣の席から「アブッ」と特徴的な声が聞こえた。アブ、といえば泉田君しかいない。ふとした瞬間の口癖につられてゆっくりと視線を向ければ、口元を隠しながら泉田君が笑っていた。
「……失敬」
小さく咳払いをした泉田君はいつの間にか私が落としていたボールペンを拾ってくれる。わざわざ軽く手で埃を払うみたいな仕草に滲み出る良い人感。そのくせ、目が合った瞬間に、また「アブッ」て吹き出したりするから、怒っていいのか、お礼をいえば良いのかわからなくなる。
「泉田君?」
恨めしそうに名前を呼んでみれば、片手をあげて謝る仕草。意外と笑いのツボが浅いのか、思い出す度に目を逸らして肩を振るわせる泉田君に困惑しながらも、意外な一面を見た気がしてなんだか少し可笑しくなった。
「……笑いすぎだよ」
わざと意地悪く指摘して、ボールペンを渡される時にありがとうの代わりに拗ねて見せれば、泉田君は穏やかな瞳で笑う。
「すまない、ミョウジさんの仕草があまりにも可愛かったから」
「え?」
口元を押さえて、いまだ込み上げる笑いと静かに戦っている泉田君の横顔。割と今、すごい事を言われた気がする。真面目で堅物な印象の彼は、そんな状況でも黒板を書き写す事を忘れないし、シャープペンはノートの上を走る。可愛いという言葉に思わず過剰反応してしまった恥ずかしさと、目が合うたびに吹き出す事を堪えている泉田君の姿にどうしようもない恥ずかしさに襲われて、不本意ながらも黒板を見つめる以外の選択肢がなくなってしまった。
「で、さっきの所は来週の小テストに出すので覚えておく様に」
教室の半分は寝ている事を知っているのか、変わらない声の抑揚のまま伝えられた事実に内心、慌てても今更遅い。もはや教科書の何ページかすらわからないまま、授業は静かに進んでいく。残りは十分、このままいけば眠らないまま授業は終わる筈だと、泉田君を見習って背筋を伸ばした。
「ミョウジさん」
授業が終わると、泉田君が申し訳なさそうに声をかけてきて、慌てて欠伸を噛み殺す。少し照れた様に頭を掻きながら、泉田君は咳払いをした。
「何度も笑ってしまって、申し訳ない。気を悪くしないで欲しい」
「あ……うん。こっちこそ、ペンを拾ってくれてありがとう」
落としたボールペンを拾ってもらったお礼すら言っていなかった事を思い出しながら、なんとなく気恥ずかしくてまっすぐな泉田君の視線から目を逸らす。彼の右手にはノートが握られていて、そういえば次回は小テストがある事を思い出し、良かったらノートを見せてもらえないかと図々しくもお願いしてみれば、とても爽やかな笑顔で了承してくれた。泉田君のノートを開くと、とても綺麗にまとまっていて真面目な彼に相応しく字も綺麗で読みやすい。小テストのポイントに至っては赤いラインが引いてあって、きっとこのノートに助けられるクラスメイトが何人もいるのだろうと思ってしまった。
「この前、寮で見ていた動物番組の猫みたいだったなと思って」
「猫?なにが?」
少しだけ思い出し笑いをするように、ふふっと笑った泉田君。柔らかい表情になんだか気恥ずかしくなった事を悟られたくはなくて、なんでもない振りをする。
「ミョウジさん、眠い時に一生懸命起きようとしてるけど、割と睡魔に負けた瞬間がわかりやすいよね。寝ぼけてキャットタワーから落ちた猫の映像を思い出してしまったんだ。あんまりにも可愛くて」
気を悪くさせていたら本当にごめん、なんて泉田君は謝ってくれるけれど不意に脳裏によぎるのは素朴な疑問。口にするか迷った挙句、結局飲み込んだのは、真面目できっと誤魔化しも嘘も言わない泉田君に聞き返したら、彼がどんな反応をするのか想像がつかなくて。
「……ノート、ありがとう」
「どういたしまして」
長い睫毛に柔らかい言葉で会話を終えた泉田君はそのまま席を離れて、姿勢よく歩いて立ち去っていく。真っ直ぐ伸びた背中を見送った後に、思わず赤くなった顔を机に沈めたのは仕方がなかったと思う。
ねぇ、泉田君。可愛かったのは猫の話ですか、私の話ですか、どんな意味で言ったんですか。