いってらっしゃい、頑張って!
出かける直前、慌ただしくなるのは私も拓斗もお互い様で。スマホがないとか、鍵がないとか、いつも大騒ぎになってしまうのはどうしてだろう。2LDKのそれほど広くもない部屋で、どうしてこんなに物をあちこちに置いてしまうのか。
「ナマエちゃん、お化粧のポーチ置いたままだけどいいの?」
「ダメ、いる!嘘、鞄に入れたつもりだったのに!」
今日から二泊三日で出張に行く。事前に用意もしていたし、時間もたっぷり余裕があったはずなのに、どうして出かける直前になると、色々と忘れ物が出てくるんだろう。
「さっき寝室にあったよ。オレ、持ってくるね」
「ごめん、拓斗。ありがとう!」
忘れ物ない?っていっぱい心配してくれる拓斗が身軽く寝室へと戻ってくれて、すぐにポーチを片手に戻ってきてくれる。思い返せば、さっきアイラインを引き直したから使ったんだった。
「もう忘れ物はない?大丈夫?」
小さなスーツケースは玄関に置いてあるし、スマホの充電器も入れた。会議で使う資料も全部確認したから、流石にもう忘れ物はないはず。
あれこれ、世話を焼いてくれる拓斗は仕事休みのはずなのに、見送りたいからと予定をわざと入れずにいてくれた。徒歩5分の駅まで送ってくれるというから本当に
優しい人だと思う。
「じゃあ、そろそろ出た方がいいかな。ナマエちゃん、先に靴履いて。オレ、スーツケース持っていくから」
「自分で持つよ?」
「駅まで送る理由が欲しいだけだよ」
小さなスーツケースは拓斗が持つとまるでおもちゃみたいに見える。くすみピンク色のスーツケースが絶妙に似合う彼は、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「オレもついて行こうかなぁ」
「一緒に行く?」
「いや、それもちょっとだけ考えたけど。でも仕事で出かけるのについて行くのは、かっこ悪すぎるから留守番してるよ」
頑張ってね、って送り出してくれる拓斗は優しい目をしていて。ナマエちゃんが帰ってくる日は、何か好きな物でも作ろうかなぁ、なんて笑っていた。
次にこの扉を開けた時には、きっと満面の笑みで出迎えてくれる事は安易に想像出来てしまって、無意識に顔が緩んでしまう。きっと家の中には美味しい香りも漂っているのかもしれない。
「あ、ナマエちゃん、ちょっと待って」
不意に玄関を出る前に、忘れ物だよ、という声が聞こえて。え、あと何を忘れてるの?と気持ちが焦った瞬間、背中からぎゅっと抱きしめられる。
大きな体を丸めた拓斗が、両腕を回してぎゅっと抱きしめてくれると不意に離れる事が寂しくなってしまう。たった三日間の出張に行くだけなのに。
「ちょっとだけ充電させて?」
強く抱きしめられているのに、苦しくはない。後頭部に押し当てられた唇は熱っぽくて、頬にかかる柔らかい髪が愛おしい。充電してもらっているのは、本当は私の方。優しい彼はいつも上手に甘やかしてくれるから、私の為の充電だとは決して言わない。
グロスや色が移るから嫌かなと思ったけれど、そんな風に抱き締められたらキスしたくなるのは当たり前のことで。拓斗の腕の中で体の向きを変えれば、察しのいい彼は目尻を下げて微笑む。
「……いってきます」
「うん、行ってらっしゃい。ナマエちゃん」
行ってきますのちゅーは忘れちゃダメだよ、ってニコニコしてくれる拓斗と軽く触れるだけのキスを交わして。物足りなさに思わず、離れようとする唇に縋れば、全部わかっているとでも言うように熱い舌が唇をなぞった。
「時間、まだ大丈夫?」
「……あと5分だけ」
自分にも言い聞かせるみたいに時間制限を口にすれば、ちらりとスマホで時間を確認した拓斗が体を屈めてくれる。精一杯の背伸びをして、彼の頬を両手で挟み込めば、優しくて頭がクラクラするような口付けが降ってくる。時間いっぱいまで、優しい唇が愛してくれるから不意に馬鹿なことを考えてしまった。
202センチの大好きな彼がポケットに入るくらい小さくなってくれたらいいのに。
「……そろそろ行かないと」
「うん。駅まで見送るよ」
名残惜しい唇を離したら、やっぱり本当は寂しくて。しっかりと繋ぎ直した拓斗の手を握って、いつもの駅へと向かう道のりを歩く。どうせスーツケースを持って駅に向かうのなら、旅行だったら良かったのに。
「今度の連休はどこかにお出かけしよっか」
「同じこと言おうと思ってた。じゃあ、帰ってきたら相談しよ?」
強く握り返してくれる掌の温度。心地良くて、もう少しだけ一緒にいたいと思ったけれど、ちゃんと頑張る私を拓斗は好きだと思うから、少しだけ足を早めて電車に乗り遅れないように前を向いて歩いていく。
今日も、明日も、明後日も。君がいるから世界はこんなにも優しくて、愛しい。