葦木場くんの欲しいモノ
10月2日は拓斗の誕生日。何ヶ月も前から欲しい物を聞いても、彼は優しく笑うだけで何も答えてはくれなかった。じゃあ、旅行でも行こうかって言ったのに「ナマエちゃん、月初めは忙しいって言ってたでしょ。また落ち着ける時にゆっくり行こう」なんて、さらりと断られてしまった。「拓斗は私に甘すぎるんだよ」
「そうかなぁ?ナマエちゃんは全然甘えてくれないと思ってるけど」
仲良く手を繋いで、結局誕生日に向かったのは県内の水族館。週末には家族連れや恋人同士で賑わう場所も、祝日でもない月曜日の朝は人が少ない。滅多に使ってもらえない有休をもぎ取ったら拓斗も休みを取ってくれて、開園と同時に水族館に来た。
「初めてデートしたの、ここだったよね」
「大学の時だよね。覚えてる。あの時、待ち合わせ場所間違えてナマエちゃんに怒られた」
「あれは拓斗がスマホ忘れてくるからだよ」
最初のデートは待ち合わせで会えなくて、2時間のすれ違い。西口で待ってるねって言ったのに拓斗がいたのは東口。何回かけてもスマホも出ないし、買ったばかりの新しい靴で走り回ったから靴擦れもしたんだっけ。
「でも、スタバのある出口って言ってたから、オレも東口って思い込んじゃったんだよね」
「……そこは私が悪かったと思う」
西口にあるのはスタバじゃなくてドトールだったから、私にも責任はあったと思ってる。今思い出せば笑ってしまうけど、あの時は本当に大変だった。連絡はつかないし、待ちぼうけだし、もう帰ろうかなって思いながら駅の中を歩き回っていたら、人混みの中に一際目立つ背中を見つけた。「葦木場くん!」って思わず大きな声で呼んだことも恥ずかしかったし、気がついた彼が走ってきて、思いっきり抱きしめてくれた事は忘れられない。大きな体で包まれて、甘い匂いがふわりと鼻をくすぐって。心の底から安堵したような声を聞いたら、ホッとして泣き出してしまった事は今思い返しても恥ずかしい。
「あ、イルカショー久しぶりに見る?」
「見たい。まだ時間あるから他の所も見てから行こ!」
そんな思い出の水族館に来たのは一年半ぶり。2人で館内マップを確認して道順を確認する。何も決めずに歩き出すと、気がついたら目的地から1番遠い所にいるから慣れた場所でも気を抜けない。
繋いだ手を時々引くのは拓斗とお喋りしたい時。少し体を屈めて「なぁに?」と聞いてくれる瞬間が好きだった。
「あ、ウツボ」
「オレさ、いつ見ても思うんだけどなんでこの子達って絡まらないんだろうね?」
トンネルみたいな隙間に四方八方から頭を出しているウツボに感嘆の声をあげる拓斗。水槽を眺める時、彼は私の背後に立って体を屈めてくれる。窮屈そうなのに、出来るだけ同じ視線で物を見てくれる優しい所が好き。
「拓斗だったら、ユキちゃん助けてー!って言いそう」
「えー、言わないよ。ナマエちゃんこそ、出口わからなくて迷子でしょ」
思わず顔を見合わせて、吹き出してしまうのはお互い思い当たる過去が多すぎるから。いつのまにか肩を抱き寄せてくれた拓斗にぴったりくっついて歩く。薄暗い館内で人もまばらにしかいないから、無意識に距離は近くなってしまう。
「見て!チンアナゴとニシキアナゴ!可愛い!」
円柱の水槽の中、砂の中から生えているみたいな姿が可愛い。思わず拓斗の腕を掴んで引っ張れば、ニコニコと微笑みながら頷いてくれる。
「ほんとだ。可愛いねぇ」
「なんか癒されるんだよね、見てると」
「そうだね。癒されるよ」
ふわふわと緩い雰囲気に自然と顔が綻ぶ。休日なら小さな子供が多くて遠慮がちにしか見えないけれど、今日は他に誰もいないからゆっくり見れた。自然と足取りが軽くなるし、話も弾む。水槽の中をくり抜いたみたいなトンネルを抜ける時は、拓斗が頭をぶつけないように屈んで歩いていた。
初めてのデートの時、実は緊張していた拓斗が思いっきり頭をぶつけて、周りの人達もびっくりしてた事も懐かしい。
「もうぶつけないよ」
「何も言ってないのに」
拓斗も同じことを考えていたのか、苦笑いを浮かべて頭を庇う。社会人になってから、なかなか休みが合わなくて、こんな風に思い出を懐かしみながらデートをするのはどれくらいぶりだろう。
イルカショーも平日だからお客さんは少なくて。客席を映すモニターに私達が映るたびに拓斗はニコニコと手を振る。大きな彼は目立つのか、飼育員さんに呼ばれてステージにあがる。「ナマエちゃんも、行こう」と手を掴まれたら逃げられなくて、2人でステージにあがった。
拓斗はイルカと握手をして、私は頬にキスをしてもらって。何度も来ているのに初めての体験に子供みたいにはしゃいでしまう。拓斗が誕生日だと分かったら、飼育員さんは子供に向けたサービスのシールを拓斗の服に貼ってくれた。色々な人から「誕生日おめでとう!」と言われて、恥ずかしそうに笑いながら、その度に私の顔を見て幸せそうに微笑むから嬉しくなってしまう。
「……なんか、今日は来て良かったなぁ」
「拓斗、色んな人におめでとうって言ってもらったね」
水族館の中にある海が見えるレストラン。平日だから予約はいらないかなと思ったけれど、誕生日のお祝いだと事前に連絡をしたら予約席が誕生日仕様になっていた。はにかんだように笑う拓斗を見ていると、バレバレのサプライズも悪くなかったかなと思う。
バッグの中に隠したプレゼントの時計はデザートが来たら渡そうかな、なんて思っていると不意に拓斗の視線を感じた。
「ナマエちゃんさ、オレに何が欲しいって聞いてくれたけど、あれってまだ有効?」
「え?何か欲しい物、思いついた?」
何回聞いても特にないって言うから、勝手に時計を買っちゃったけど。せっかくなら、拓斗の欲しい物があげられたら嬉しいなと思う。
「……うん。前から考えていたんだけどね」
「それなら、先に言ってくれたら良かったのに。遠慮したの?」
拓斗らしいなぁ、なんて思ってグラスに手を伸ばしたら、向かい側から拓斗の長い指が伸びて、指先が絡まる。優しく触れる指先が撫でてくれるのは左手の薬指。
「ナマエちゃん、オレと一緒に暮らさない?今の部屋はちょっと二人で住むには狭いから、どこか新しく探す事にはなるけど」
「……拓斗」
「これから先のナマエちゃんの時間、オレと一緒にいて欲しい」
優しく拓斗の指が撫でる薬指。一緒に暮らした先の未来を期待させる仕草に胸がぎゅっと熱くなる気がした。
「……なんだかプロポーズみたい」
「それはまた、もう少し先の楽しみにとっておいて?」
その時はちゃんと、オレが頑張るから、なんて微笑まれたら頷く以外の選択肢なんて思い浮かばない。ぎゅっと繋いだ指先を引き寄せて、約束するみたいに指先に触れる拓斗の唇。出会った頃と変わらない優しい瞳も柔らかい声もどうしようもないほどに愛しい。
「……拓斗、誕生日おめでとう」
「うん。これから先もよろしくね」
渡しそびれた時計のプレゼント。きっとこの先も同じ時を刻んでくれるはずだから、拓斗が指を離してくれたら渡そうと思う。けれど、もう少しこのまま絡めたままでいて欲しいと思うから、私は優しい指先をぎゅっと強く握り返した。