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手嶋の初めての口付けは境界線の先

 友情のままなら、終わりはなくて。けれど愛情なのだと口にしなければ、特別になんてなれはしない。それならば、この感情に自分で名前をつけて動き出さなければ何も始まったりはしないんだろう。 

「手嶋って面白いよね。一緒にいるとすごく楽しい」

 鈴みたいな声でふわりと笑ったミョウジの言葉がチクリ、とオレの何かに触れる。一緒にいると楽しい、面白い。それは決して悪い意味なんて含まれてはいないとわかっているのに、虚しさの残る言葉だった。

「手嶋って本当に良い人」

 あぁ、まただ。良い人、安心する人、優しい人。向けられた感情が好意だとわかっているのに、それを口にするのがミョウジだというだけで優しい言葉が棘になる。
 教室の窓から吹き抜けた生温い風にじわり、と額に汗が滲んだ。机に頬杖をついて、オレの前髪に不意に手を伸ばしたミョウジは警戒心なんて欠片も抱いていないのだろう。

「……そりゃ、どーも。オレもミョウジといるのは楽しいよ」
「うん、ありがとう」

 細い指先が汗で額に張り付いたオレの前髪に触れる。ありがとうじゃねぇんだよ、そこはスルーするなよ、と一言付け加えるだけで意味合いが変わるのに。その一言を飲み込んだせいで、ミョウジはそれ以上の意味を考えたりはしない。
 机に広げた数学の問題集には飽きたとばかりにシャープペンが転がる。オレの前髪を弄んだ指先が不意に額をなぞるから、おまえマジで何考えてんの、と問い詰めたくなる。

「暑い?手嶋、大丈夫?」

 パタパタと数学の教科書で仰ぐミョウジ。緩やかに送られる生温い風に混じったミョウジの香りは石鹸みたいに爽やかなのに、どこかほんのりと甘さが混じる。
 誰もいない放課後の教室。机一つを挟んで向かい合うミョウジとの微妙な距離はオレとミョウジの中途半端な関係を物語っているみたいだった。
 高校三年間、同じクラスだったミョウジとは仲が良いと思う。普通に二人で出かけるし、部活を引退してからは一緒に勉強する事も増えた。
 息抜きにカラオケだって行くし、腹が減ればファミレスも行く。付き合っていないというと大概の奴は驚くし、あの青八木だって目を丸くした。

「ん、平気。気にすんな」

 顔の前で鬱陶しく揺れる教科書を止めるべく、ミョウジの手首をやんわりと掴む。指先が簡単に回る細い手首は簡単に動きを止められる癖に、向けられたのは無防備な視線。

「ねぇ、手嶋」

 ほんの少しでも力を入れたら、きっと骨が軋んで身動きなんてとれない癖に。無防備にへらりと笑う口元はほんのり色付いていて、濡れたみたいに艶やかだった。

「大学に行っても、やっぱり自転車は続けるの?」
「まぁ、一応そのつもり」

 ミョウジは掴まれた手首を気にも止めない。それどころか、やっぱり手が大きいね、なんて笑っているのはオレを完全に対象外だと思っているからなのか、究極の鈍感なのか。

「卒業しても、たまには遊んでね」

 あぁ、もう最悪だ。志望校が違う事も、卒業する事もミョウジにとってオレとの別離は決定事項なのだと思い知らされる言葉に勝手に苛立つ自分がいる。

「……おまえさ、オレのことなんだと思ってる?」

 手首を掴んだ指を解いて、思わず指先を絡める。細い指先は大人にはバレない程度に薄く色付いて磨かれていた。いつの間にこんな綺麗な指先になっていたのだろう。思わず指の腹でミョウジの爪を擦れば、明確に高校生活の終わりが近づく事を意識してしまう。

「好きだよ」

 メロンパンが好きとか、甘いカフェオレが好きとか。そんな売店のおばちゃんに言うのと同じ声色で口にされた言葉の甘さに酔いたくなる。
 思わず絡めた指先に力を込めて、自分の口元まで引きよせたのに。唇で触れる勇気もなければ、オレの好きはもっと重いんだよ、とも言えない言葉は乾いた笑い声にしかならなかった。

「……手嶋は?」

 いつものミョウジの声よりも少し上擦った柔らかい声。繋いだ指先に力を込めたミョウジは、オレがやったみたいに指先を引き寄せる。

「手嶋は私のこと、どう思ってる?」

 引き寄せられた指先に、ほんの一瞬だけ触れた感触。マシュマロみたいに甘くて柔らかいなんて思った瞬間、ミョウジの唇がオレの手の甲に触れた。

「……好き、の意味わかってないでしょ」

 ふにゃりとした柔らかさと温もりに頭の中が真っ白になる。どこか拗ねたような伏せた視線に鼓動が高鳴る。オレが飲み込んだ言葉も、出来なかった行動も。ミョウジが勇気を振り絞った事を思うと、オレはめちゃくちゃ情けない男で空を仰ぎたくなった。
 机一個分の距離、このもどかしい距離。ほんの少しの勇気で踏み込めば、もっと早く関係が変わっていたのかと今更嘆いても遅いと思いながらも。

「わかってるに決まってんだろ」

 ミョウジの指を繋ぎ直して、思わず椅子から立ち上がる。体を乗り出し、ミョウジに顔を近づければ泣き出しそうな潤んだ瞳がオレを見ていた。
 手の甲に触れた唇の意味がもっと知りたくて、ミョウジの唇を繋いでいない手の指の腹でゆっくりと触れる。

「オレのは愛情の方の好き、だけどミョウジも同じだって思ってもイイ?」
「……手嶋の根性なし」

 いつもよりもずっと赤くなったミョウジの顔。可愛いなぁ、と目を細めれば不意打ちで掴まれたネクタイを引き寄せられて、艶々の唇が一瞬で目の前にあった。一瞬、躊躇うくせに少し強引に重ねられた口付けは想像以上に心地良い。
 本音を言えば、飛び出しそうな心臓が痛くて、なんかもっと気の利いた言葉を言いたい気持ちもあったけれど。ダメだ、頭ん中なんも考えらんねーわ。

「……根性なしでごめん。でも、オレもミョウジがずっと好きだった」

 もう一度今度はオレからキスしても良いか、聞いてみようと思った瞬間。ポロリと零れたミョウジの涙を見たら、許可なんてもらう余裕がなくて。
 気付いたらもう、ミョウジの唇にオレの唇を重ねていて自分でも少し驚く。
 友情と愛情の境界線を先に踏み越えてくれたミョウジにありがとうとごめん、とこれから先も一緒にいよう、と言いたい言葉は山ほどあるはずなのに。
 
 重ねた唇が愛しすぎて、今はもう口付け以外、何も出来る気がしない。

 
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