高校生の頃の葦木場君を抱きしめたい

 時々、彼は空を見上げる。雲ひとつない青い空も、雨が降りそうな曇天も。ふとした瞬間、足を止めて空を見上げる拓斗は何を思っているのだろう。
 背の高い彼が空を見上げれば、どんな表情をしているかなんて、私からはわからないけれど。拓斗の心がどこかに置き去りにならないように、私に出来る事があるとすれば、彼の大きな手をぎゅっと握る事ぐらいしか思いつかなかった。

「今日はお天気だねぇ」

 久しぶりに二人揃っての休日。ベランダいっぱいに広がった洗濯物の隙間から拓斗が柔らかく笑った。暖かくなって、もうそろそろ使わないからと冬物の寝具を洗ったのは今朝の事。
 去年の冬に新しく買ったダブルの毛布は柔らかくて肌触りが良くて、拓斗と一緒に使っても十分なサイズだった。おかげでいざ洗濯すると大きすぎて干すのも大変だったのだけれど。実際、拓斗がいなかったら、一人で干せなかったかもしれない。

「……こんな日は走りたくなっちゃうなぁ」
「出掛けて来てもいいよ?」

 色違いの枕カバーをピンチにかけながら、ピンクのウィリエールを思い浮かべた。大学から付き合っている拓斗が大切にしているロードバイクはとても綺麗な色で、私の知らない彼をきっとたくさん知っている。見上げた空の色や風の感触。きっと、日常の中のふとした瞬間、遠くを見つめる拓斗の中には私の知らないロードバイクのたくさんの思い出があるんだと思った。
 一緒の休日、本音を言えば拓斗が出掛けてしまうのは寂しいけれど。彼が大好きなロードバイクに乗る背中を見つめるのが好きだから、青い空に誘われたなら自由に走れば良いのに、と思う。
 
「え?行かないよ?ナマエちゃんと今日はのんびり過ごす予定だから」
「たまには乗ってあげないと、大事なウィリエール拗ねちゃうよ?」

 拓斗がピカピカに磨き上げたフレーム。彼が大切そうに触れる姿を見ていると本当に自転車が好きなんだなと思う。会った事はないけれど、拓斗の話によく出てくる純ちゃんやユキちゃん、塔ちゃん達との思い出がきっとたくさん詰まっているんだろう。
 枕カバーを干し終わって、リビングへと戻れば大きな手に引き寄せられる。柔らかい香りに包まれれば、自然と頬が緩んでしまった。
 ぎゅっと抱きしめられる感覚。202センチの拓斗に抱きしめられると、長い腕の中に閉じ込めて欲しくてたまらなくなる。

「オレが一人で出掛けたら、ナマエちゃんは拗ねてくれないの?」

 まるで拗ねて欲しいみたいな言い方に思わず吹き出せば、長い腕がもっと絡みつく。まるで拗ねているのはオレの方だよ、とでも言いたそうに。

「でも走りたそうだなって思ったから」
「やっぱり、ナマエちゃんもロード練習してみない?あ、それか電動自転車でも良いけど」
「ロードはちょっと……。前にほら、才能ゼロだったでしょ?電動自転車でもウィリエールについていくのは無理だと思うよ」

 以前、拓斗と一緒にいつか走ってみたいと思って、ロードバイクを見に行った事を思い出す。綺麗なフレームに憧れて、いざ試乗したらグラグラどころかまともに走り出すことすら出来ず、サイクルショップの店員さんが「いつか乗れる日は来ますよ!多分!」と必死にフォローしてくれたっけ。あの時、私があまりにも運動神経が無さすぎて、見ていた拓斗が青ざめた事を彼は忘れたんだろうか。

「でもさ、ロードに乗ってると見える景色もあるんだ。それ、ナマエちゃんにも見て欲しい」

 顔を上げれば、拓斗の瞳はまた、ベランダの外を見ていて。今日の空を見て、拓斗はどんな景色を思い出しているんだろう。

「……拓斗」

 柔らかいニットを少しだけ引っ張って、彼の視線をこちらに向ける。必死に見上げれば、優しい拓斗はそっと体を屈めてくれる。

「ん?なぁに?」

 ふわりと笑う優しい瞳。私の大好きな優しい瞳は今は私しか映っていない。けれど、確かに空を見ていた時、彼の中には心を揺さぶる思い出があるんだと思う。
 きっとそれは、ロードバイクに関する事。箱根学園のエースだった彼が見て来た世界、大学から出会った私が知らない世界。

「……今日の空は何を思って見ていたの?」
「え、どういう意味?」

 小首を傾げて、困惑する拓斗は無意識なんだろうか。時々、空を見上げて遠い目をしていること。空の記憶に引き寄せられて、時々心がどこか違う景色を見ていること。その度にほんの少しだけ、私が寂しくなってしまうこと。

「時々、空を見てロードバイクの事考えてそうだなって思ってた」
「……オレ、そんな顔してる?え、自覚なかったんだけど。でも確かに時々、懐かしいなぁって思う事があったかも」

 ナマエちゃん、オレのことよく分かるね、すごいね、なんて照れた様に笑う拓斗が優しく髪を撫でてくれる。

「……やっぱりロードバイク練習しようかな」
「え、ほんと?オレ教えるよ。あ、でもちゃんと教えるなら純ちゃんや塔ちゃんの方が向いてるかも。今度連絡してみるよ」

 どこのメーカーがいいかな、とかフレーム何色が似合うかなぁ、なんて。拓斗の腕に抱きしめられながら思い描くのは軽やかにロードバイクで彼を追いかける自分の姿。

「私、本当に運動神経悪いからね?バランスとるのも下手だし。多分、乗れるようになるのにすごく時間かかるよ」
「大丈夫、オレちゃんと付き合うから。楽しみだなぁ、いつか一緒に走ろうね」

 一瞬、電動自転車の方がいっそ一緒に走れるような気がしたけれど。あんまりにも拓斗が嬉しそうに笑うから、無謀にも頑張ろうかな、なんて思ってしまう。

「オレもさ、うまく乗れない時期があったんだ。急に背が伸びて、バランスとれなくて」

 伏せた視線はどこか懐かしそうに、寂しそうに笑う。拓斗の手は相変わらず甘やかすみたいに、ゆっくりと私の頬を撫ぜていた。

「箱根学園のエースにもそんな時期があったの?」
「……オレ、最初は最強の洗濯係だったんだよ」

 私の知らない高校生の葦木場拓斗はどんな人だったんだろう。優しい目をした彼の頬に指を伸ばして、ハートのホクロにそっと触れると、目尻が下がった。
 
「その頃の話、聞きたいって言ったら教えてくれる?」
「いいよ。でも、かっこ悪いって嫌いにならないでね」

 今日はのんびり、過ごそうねと笑う彼の思い出を。ひとつ、またひとつと聞くことが出来たなら、拓斗の事をもっと好きになるような気がした。

「今日は本当、良い天気だから後でナマエちゃんのお気に入りのカフェに行こう?テラス席があったから。あ、帰りにサイクルショップも寄ってみようね」

 青い空と緩やかな風。拓斗と一緒にいつかロードバイクで走る事が出来たら、彼の大切な自転車の思い出に私も混ざる事が出来るのかな、なんて思ったりもする。最強の洗濯係だった高校生の拓斗。もっと早く出会っていたなら、その頃の彼を抱きしめる事も出来たのに。
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