黒田の背中を彼女は信じてる
届け屋、黒田雪成。自慢の猫脚をしならせて、誰よりも速くエースをゴールに届ける事が自分の仕事だと彼は言った。私はロードレースの事はよくわからない。あんなスピードで走って怪我をしないのかなとか、それぞれの役割があるんだと聞いても難しくて「名前はわかんなくていいの。応援してくれりゃそれで十分」と、笑った雪成の手を握り返す事しか出来なかった。
「ほんとはユキはクライマーなんだ」と泉田君から聞いた時、雪成が速いからエースアシストなんじゃないかとかズレた事を考えていたけれど、インターハイを前にロードレースについて勉強した。雪成の話を思い出して、泉田君から去年のインハイメンバーの選出について聞いて、ようやく彼が抱えていた葛藤に少しだけ触れた気がした。
高校最後のインターハイが近づく。黒田雪成の最初で最後のインターハイ。日に日にピリピリと研ぎ澄まされていく雪成の感覚を肌で感じながら、何も出来ない自分を悔やむ。私の知っている雪成はクラスの中心にいて、美術以外はなんでも出来る男で、いつも余裕がある人だったから。
「ナマエはさ、難しい事は考えんなよ」
インターハイ前で部活も忙しいはずなのに、雪成は私とお昼ご飯を一緒に食べる。時々、痛いぐらい研ぎ澄まされた視線で見つめるから怖いぐらいの気迫を感じるのに、部活の事はあまり話してくれない。私とご飯食べてて良いの、なんて聞いてみたこともある。
「おまえと飯食ってると、頭ん中空っぽに出来るからいいの。飯の時間くらいしか、一緒にいられねーし」
「なんかそれ、私が馬鹿って言われてる気がするんだけど」
「そうじゃねーよ。ナマエといると癒されるってこと」
3つ目のおにぎりを食べながら、雪成は照れたように鼻を擦る。大きな口で齧り付きながら、空を見上げる彼は何を思っているんだろう。もうすぐインターハイが始まる。周りからのプレッシャーも重圧も絶対にあるはずなのに、雪成は私に泣き言一つ吐かないし、不安も吐露しない。
ただ、何かを聞いても自分に言い聞かせるみたいに「オレは徹するんだよ」と静かに繰り返すだけだ。燃える目をして、ギラギラする闘志を漲らせて、それでも私の前ではいつも通りの雪成でいようとしているみたいだった。
「……私に何か出来ることある?」
頑張って、とか信じてるとか安い言葉を口にして良いのかわからなくて、泣きたい気持ちで雪成の隣に座る。もたれかかった体は細身なのにがっしりしていて、引き寄せる腕は力強い。
見上げれば光に透ける髪が綺麗で。癖のない真っ直ぐな髪に指を伸ばせば、手首ごと掴まって雪成の薄い唇が手首に一瞬だけ触れた。
「何もねえよ」
目を細めて笑った雪成の言葉に傷つかないと言われれば嘘になるかもしれない。けれど、もう覚悟を決めた彼の視線はブレなくて、教室の中では見ることのない本気の目をしていた。
「勝つって、信じてくれればそれでいい」
祈るとか願うよりも、ずっとその方がいいと笑った雪成は、ほんの一瞬だけ不安そうな目をしたけれど。立ち上がって、教室に戻ろうと振り返った顔はいつもの余裕たっぷりの雪成だった。
ピンと伸びた背中を見つめて、追いかけて。思わず色んな気持ちをこめて、力一杯に彼の背中を叩いたら「痛ぇな、バカ力かよ」と皮肉な顔で笑われた。
エースの背中を押すのが彼の役割だと言うのなら。徹する事が自分の存在意義だと言うのなら。言葉にならない思いを全部ぶつけて、ペダルを踏み込むであろう彼の背中を、私は信じて応援しようと思った。