泉田キャプテンに片恋する年下マネ(就任間もない頃)

 
 冬に洗濯物を干すのがこんなに大変だとは思わなかった。箱根学園の自転車競技部は強豪校だから部員も多い分、サイクルジャージの洗濯物も多い。冷たいジャージを誰もいなくなった部室で干していると指先は痺れるぐらいに冷たくなってしまって、段々と感覚がなくなっていく。
 どんなにハンドクリームでケアをしても手は荒れてしまって、時々痛む。けれど苦痛だと思わないのは、インターハイを間近で見て、その熱を知ってしまったからだ。ロードバイクのペダルに自分の全てを賭けて踏み込む先輩達や同級生の真波君の姿を見たら、マネージャーとしても半人前の自分に出来ることは何でもやろうと思った。
 福富先輩からキャプテンは泉田さんに代わって、新しい空気を感じる。良い意味でも、悪い意味でも。

「……泉田さん、大丈夫かな」

 新キャプテンがスプリンターである事は、異例の事らしい。責任感があって、優しくて芯の強い泉田さんはキャプテンにぴったりだと思う。けれど部員の中には、スプリンターではキャプテンを背負えないと思う人がいると聞いて、とてもショックだった。ロードバイクの事なんてまだまだ素人の私に口を挟む資格も発言権もないけれど。

「泉田さんは箱根学園のキャプテンに一番相応しい人だよ」
「どうして、そう思うんだい?」
「だって誰より努力して、周りを見て、箱根学園の勝利を願う人じゃないですか」

 思わずもやもやしていた思いを尋ねられたままに口にして。横から渡されたサイクルジャージの皺を伸ばすべく思いっきり振った所で違和感に気が付き固まってしまった。ゆっくりと横を向けば、少し困り顔の泉田さんが立っていて。どこか気まずそうに視線を伏せると、次の洗濯物に手を伸ばしていた。

「泉田さん?なんで、え、帰られたんじゃ?」
「いや、灯りが点いていて覗いたらミョウジさんが残っていたから。こんな遅くまでありがとう」

 伏せた瞳に長い睫毛。穏やかな口調はいつもと変わらず、私からハンガーを取り上げると丁寧に干してくれた。

「……あの、いつからそちらに」

 独り言を聞かれていた事実に泉田さんの顔が見れない。後輩、それもマネージャーの癖に生意気な事を言っていた私を泉田さんはどう思ったんだろう。

「泉田さん、大丈夫かな……の所かな。マネージャーにも心配をかけてすまなかったね」
「あの、ごめんなさい!」

 最後の1枚になったジャージを泉田さんの手から奪い取る。慌ててハンガーに掛けようとすると焦りから洗濯カゴをひっくり返してしまった。中身は全部干し終わっていて良かったと思いながらも、蹴飛ばしてしまった洗濯カゴが派手な音と共に虚しく転がる。

「そんなに動揺しなくても」

 少しだけ笑みを浮かべた泉田さんはとても綺麗な瞳をしていて。思わず覗き込みたくなるぐらい澄んだ瞳に、胸がぎゅっと苦しくなる。泉田さんは綺麗だ。整った顔とかだけじゃなくて、鍛えられた体も、心も、言葉選びも。

「君の言葉、とても嬉しかった」
「あの、本心です。本当にそう思ってます。嘘じゃないです」

 泉田さんは洗濯カゴを拾うと、優しく微笑む。無言のまま部室の片隅の定位置において「さぁ、帰ろうか」とだけ呟いた。

「ミョウジさんはバス通学?」
「はい、泉田さんは寮生ですよね」

 スマホで時間を見れば、ちょうどタイミングが悪く次のバスが来るまで20分はある。もう少しゆっくり部室を出ようと思ったけれど、戸締りの為に待っている泉田さんをお待たせするのが申し訳なくて荷物を抱えて外に飛び出した。

「急かしているわけじゃないから、ゆっくりおいで」
「いえ、大丈夫です。お待たせしました」

 登下校用のコートを羽織って、冷たい風に思わず首を竦める。かじかんだ指先はうまくジッパーがはめられなくて、もどかしい。
 鍵を閉めた泉田さんはしばらく私の指先を眺めていたけれど、なかなか噛み合わないジッパーを見て「冬の洗濯物は大変だからね」と優しく微笑んでくれたから、それだけでも報われた気がした。

「失礼」

 遠慮がちに断りをいれて、泉田さんが不意に体を屈める。一瞬近づいた綺麗な顔立ちに思わず耳まで赤くなっていないか不安になった。長い指先が私のコートのジッパーに触れて丁寧にはめてくれた。ただそれだけなのにドキドキと高鳴る鼓動がバレてしまわないか不安がよぎる。
 丁寧にジッパーを上げる音、髪を巻き込まないようにと一瞬頬を掠めた指先。所作の一つ一つが泉田さんらしくて、初めての距離感に胸が高鳴る。

「もう遅いからバス停まで送るよ」
「いえ、泉田さんが風邪を引いたら申し訳ないので!大丈夫です!」
「うん。でも、危ないからね」

 もう一度、送るよと言われて断る理由はない。ポケットから取り出した手袋をはめる、憧れの人。穏やかに向けてくれる優しさに、静かに頷いて並んで歩き始めれば歩幅とスピードが違いすぎて、慌てて小走りになってしまった。

「すまない。女の子と歩く事がないから」

 申し訳なさそうに頭を下げた泉田さんは、私が歩く様子を確認する。ゆっくりと歩調を合わせるように歩き出す姿に本当に実直な人だと思った。
 自転車競技部のウインドブレーカーを羽織った泉田さんの吐息が白い。言葉少なく、当たり障りのない会話を交わしながらゆっくりと夜道を歩く。一番近いバス停は坂の下にあるから、距離はさほど遠くない。確かに箱根学園の生徒達が多い帰宅時間とタイミングがずれると人通りはほとんどないから、いつもなら少し夜道は怖くて小走りに坂を駆け降りていた。

「バスで家までは、どのくらいあるんだい?」
「30分くらいです。バス停を降りて、歩いたら15分くらいなので」
「降りた後も気をつけて帰るんだよ」

 真面目すぎる言葉に思わず嬉しくなって頬が緩む。結局、泉田さんはバスが来るまで一緒にいてくれて、たまには居残りも悪くないなんて思った。中学の出身はどこだとか、今の担任は誰だとか。二人だけの時間を何とか持たせようとしてくれる泉田さんはやっぱり真面目な人だ。
 ようやく5分遅れでバスのヘッドライトが見えた時、ライトに照らされて、泉田さんの表情はよく見えなかったけれど。

「……君の信頼に応えられるキャプテンでありたいと思う。君の言葉、とても嬉しかったよ」

 ありがとう、と告げた声は穏やかでとても澄んでいた。あぁ、この人が本当に好きだとぼんやりと思いながらも。

「良かったら、帰り道に使ってくれ」

 するりと指先を抜いて、差し出された手袋を思わず受け取ってしまう。真っ直ぐで誠実に、インターハイの勝利を渇望して箱根学園最速の槍であろうとする、泉田塔一郎その人がとても恋しい。けれど、淡い恋心と背中合わせで、ほんの少しの邪魔もしたくはないと思った。

「ありがとうございます。泉田キャプテン」
 
 彼の温もりが残るであろう手袋に、せめて触れたいと思ってしまった事は許されるだろうか。
 キャプテンと呼び掛ければ、泉田さんは静かに頷いて。バスに乗り込む瞬間、ほんの少しだけ腕を掴まれて「……名字さん、本当にありがとう」と囁かれた言葉。
 閉まる扉の向こうで優しく微笑む泉田さんに手を振って、そっと手袋をはめるとじんわりと温かい。まるで手を繋いでいるような気持ちになって、あの人の為なら何でもしたいと思えば、浮かんだ涙すら愛しいと思う。
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