片恋の及川は彼らの幸せを祈りたい
「及川先輩ー!」体育館の入り口から制服の女の子が三人、顔を覗かせて黄色い声をあげる。期待に応えるようにひらひらと手を振れば、歓声が上がって悪い気はしない。知らない子ばかりだから、きっと一年生なのだろう。
「頑張ってください!応援してまーす!」
「ありがとー!」
「うるせえぞ、ボゲ!」
可愛い後輩にサービスするように笑顔を向ければ、カッコいいとか、イケメンとか賛辞が飛び交っていたのに、顔面にボールが飛んできた勢いでひっくり返る。女の子達の歓声が悲鳴に変わって、痛む鼻を押さえれば仁王立ちした岩ちゃんが怖い顔で俺を見下ろしていた。
「岩ちゃん!わざと顔に当てるの本当にやめてくれない!?」
「あぁ?へらへらしてる主将のツラ、直してやったんだ。礼ぐらい言えや」
「うわ、最悪。鼻血出てきたし!」
「イケメンになってよかったな」
文字通り鼻で笑った岩ちゃんは文句を言う俺を無視してスパイク練習へと戻っていく。慌てて鼻を押さえれば、ポタリとTシャツが赤く染まった。さっきまで応援してくれていた1年生は岩ちゃんの怒声にびっくりしたのか、いつの間にかいなくなっていて、代わりに注がれたのは国見ちゃん達の冷たい視線。
「岩ちゃんの、馬鹿!」
いたたまれなくなって、鼻を押さえたまま体育館の入口へと向かう。ひどい、誰もティッシュの一枚も持ってきてくれない。俺は青葉城西の主将なのに。風通しの良い階段に座って、ぎゅっと鼻を押さえれば口の中に血の味が広がった。
「及川君?」
誰も優しくしてくれない、と悲しい気持ちで項垂れていると、柔らかい声が聞こえた。つられるように顔を上げれば、隣のクラスのミョウジさんが階段の下から見上げていた。クラスは一度も同じになった事はないけれど、何度か彼女とは話をしたことはある。正確には話をするきっかけを作って、声をかけている……が正しい。明らかに俺の一方通行。
去年の委員会で一緒になってから、ずっと気になっている相手から声をかけられて嬉しいはずなのに、どうして今なんだろうと泣きたくなった。
「鼻血出てる。これ、とりあえず使って」
少し驚いた顔をしたミョウジさんは小走りに階段を駆け上がってくると肩にかけていた鞄を下ろす。制服のポケットからピンク色のハンカチを取り出すと、何の迷いもなく差し出してくれた。一瞬、受け取る事を躊躇ったのを察したのか、「気にしなくていいから」と血が伝っていたらしい俺の右手をハンカチで拭う仕草が男前だった。
「ミョウジさん、俺すごく感動してる。かっこよすぎて惚れそう」
「そう。とりあえず、ティッシュもあげるから鼻に詰めといた方がいいよ」
にこりともせずに淡々と返されて、どこか空しい気持ちで差し出されたティッシュを受け取る。そんなスルーしなくてもいいのに。
「冷やした方がいいよね。保健室行ってきたら?」
「どうせすぐに止まるから平気。それよりハンカチごめん」
「いや、ダラダラ出てるのに無視する方がおかしいし」
「……その発言だと、体育館の中にはおかしい奴らしかいないよ。岩ちゃんのせいなのに!」
どこか呆れた顔をしていたミョウジさんが、ふっと小さく笑う。
「岩泉君のボール、顔で受けたの?」
「顔で受けたんじゃないの、顔にぶつけられたの!ひどくない?こんなにイケメンなのにさ」
ミョウジさんの視線が体育館の方に一瞬向く。凛とした表情が和らぐのを見て、ここからは見えないはずなのにミョウジさんは岩ちゃんを見ているような気がした。
「氷、保健室で貰ってきてあげる」
「別にいいよ。それより、誰かに用事があったんじゃない?」
「急いでるわけじゃないから」
また、淡々とした口調で答えると、ミョウジさんは軽快な足取りで階段を下りて行く。スラリと伸びた手足が綺麗だな、なんてぼんやりと見送りながら思う。すぐに止まると思った鼻血は意外としつこくて、喉に降りてくる感覚が気持ち悪い。
「グズ川、いつまでサボってるんだ。ボゲが」
背後からゴン、と頭を叩かれて目の前がクラクラする。乱暴な声の主は自分のせいだというのに少しも悪びれた所もなく、後ろから蹴飛ばしてくる。
「岩ちゃんのせいじゃん!少しは労ってよ!」
「うるせぇ、さっさと鼻に詰めとけ」
ミョウジさんが置いて行ってくれたティッシュを乱暴に出すと、岩ちゃんはどう考えても鼻に入らないサイズを丸めてきて、無理やり人の顔に押し付けてくる。
「ちょっ……!サイズ絶対あってないじゃん!痛いって!」
「だまれ、グズのクソ及川」
「悪口言い過ぎだし!」
岩ちゃんの丸めたティッシュを半分にしながら、仕方なく鼻に詰める。ミョウジさんのハンカチで鼻を隠す様に押さえれば、ふわりと柔軟剤の香りがする。半分、自分の血の匂いが混ざってはいたけれど。
「岩ちゃんのクラスのミョウジさんって、優しいね」
「はあ?なんで急にミョウジ?」
「ハンカチ貸してくれた。今も氷を取りに行ってくれてる」
ほんの少しだけ、優しくしてくれたことを自慢げに言えば、無言で拳骨が降ってきて。どういう意味か聞こうかと思ったけれど、多分余計な事を言えば二発目が降ってくるのが分かっていたから、それ以上はやめておいた。
しばらくすると、アイシングバッグを片手に持ったミョウジさんが軽やかな足取りで階段を上ってくる。
「ミョウジさん、ありがとうー!」
「しばらく冷やすといいよ」
顔を上げれば、ミョウジさんが俺の顔に優しくアイシングバッグを当ててくれる。ひんやりとした感覚が気持ちよくて、顔が緩むのを見透かされたのか、背後から岩ちゃんの膝がグリグリと背中を押してきた。
「わざわざ悪かったな、ミョウジ」
「こっちこそ、ごめん。多分、さっき体育館で騒いでいた1年、うちの部活の子達。後で邪魔しないように言っとくから」
ミョウジさんはあまり表情が顔に出ないクール女子なタイプだと思う。相変わらず淡々としていて、隙がないというか。俺を挟んで頭上で会話をする岩ちゃんもまた、同じように淡々と話していて色気もない。黙って見上げていれば、二言、三言、当たり障りのない会話がやり取りされる。
「じゃあ、部活頑張って」
「おう。ミョウジもな」
「及川君も、お大事に」
少しだけ体をかがめたミョウジさんに、優しく声をかけられて胸がぎゅっと締め付けられる。単純に嬉しいと思う反面、チクリと小さな痛みが走る。ミョウジさんの視線は岩ちゃんの背中を追いかけていて、振り向かない岩ちゃんは馬鹿だなぁと思った。
「ミョウジさん、ありがとう。今度、何かお礼するね」
「気にしなくていいのに」
俺が声をかけると、ミョウジさんは岩ちゃんから視線を外して俺の方を見てくれた。でも、向けられる視線が全然違う。感情も熱も、向けられる視線が違いすぎて辛くないっていったら嘘になる。
「でも、俺がそうしたいから。ミョウジさん、またね」
小さく手を振れば、ミョウジさんも手を振り返してくれる。階段を下りていく後姿を見送りながら、アイシングバッグを額に押し当てて浮かんだ熱を少しでも取り払いたくなった。
「……はやく岩ちゃんがミョウジさんの気持ちに気づけばいいのになあ」
好きだから、彼女が向ける視線の先に気が付いた。大好きな友人だから、あんなに素敵な子が見ているんだよって気づいて欲しい。複雑に入り混じった感情の中で、俺が彼女を好きな事だけは、このままずっと胸の中に隠しておこうと思う。