葦木場に翻弄される初キス


「あのさ、キスしてもいい?」

 お腹が空いた、みたいな雰囲気で急にそんな事を言い出した葦木場君は急にその場に座り込む。見下ろされていた視線が急に自分よりも低くなって近づいた距離に息を呑む。上目遣いの甘えているような瞳がもっと見たくて、くるんとカールした可愛い前髪に思わず手を伸ばした。愛しむように前髪に触れれば、手首をキュッと掴まれて。滑るようにそのまま指が絡んで引き寄せられる。決して強い力でもなかったのに、吸い寄せられるみたいに葦木場君の前に座り込めば、また視線の位置が逆転した。

「ごめん、急にびっくりするよね」

 眉を下げて、葦木場君は困ったように笑う。向かいあって繋がれた指先は離さないまま、不意に顔が近づいた。唇が触れる事を期待しなかった、といえば嘘になる。思わず、ぎゅっと目を瞑れば唇には何も触れなくて、代わりに肩に重みがかかる。
 恐々と目を開ければ、葦木場君の額が肩に触れていた。いつの間に指先が離れたのかはわからない。けれど、背中と腰にいつの間にか葦木場君の腕が回っていて優しい力で抱きしめられていた。
 葦木場君とは付き合っているわけじゃない。二人で出かけるし、電話もよくするけれど恋人なわけじゃない。好きだとか、付き合うとか、そんな言葉は一度も言われたこともないし言ったこともない。
 地面には買ったばかりのペットボトルが転がっていて、夏の日差しを受けてキラキラと光っていた。たまたま自販機の前で葦木場君と鉢合わせただけなのに。もうすぐロードレースの大会だね、なんて話をしていたはずなのに。どうして私はいつの間に葦木場君の腕の中にいるんだろう。

「葦木場君」
「ごめん」

 なんで、とか急にどうしたの、とか。聞きたい事はたくさんあるのに、葦木場君の声が重なって疑問が口に出来ない。葦木場君は額を私の肩に押し当てたまま、大きく溜息をつく。長めの髪は首筋に触れてくすぐったくて。吐き出した溜息は胸元に触れて、無意識に体がびくりと震えた。

「ナマエちゃん、困ってる?」
「……当たり前だよ」

 ほんの一瞬、体が後ろに逃げれば葦木場君の腕に力が篭った。いつでも離れられるくらいの優しい腕の檻の中から急に逃げ場がなくなって不安になる。渡り廊下の影に隠れてはいるけれど、誰かが通るかもしれない場所。そんな所で葦木場君の腕の中に閉じ込められて、どうすればいいんだろう。

「耳、赤い」
「葦木場君のせいだよ」

 ふんわりとした笑顔を浮かべながら、葦木場君と噛み合わない会話をする。困ってるって聞いたくせに。ごめん、って言うくせに。葦木場君の腕の力は、ゆっくり弱くなって、背中から両腕にゆっくりと滑ってくる。また、指先が繋がれて両手がまた捕まった。
 
「……やっぱり、ナマエちゃんにキスしたい」

 今にも泣きそうな目で、見つめられてゆっくりと近づく唇。鼻先が掠める距離で柔らかい声がズルい言葉を口にする。

「イヤなら逃げて、ナマエちゃんがイヤならしないから」

  絡めた指先は離すつもりはないくせに腕には力が入っていない。逃げようと思えば逃げられるゼロ距離で葦木場君は私の答えを待っている。好きな気持ちを見透かされている気がして、けれど葦木場君の気持ちがわからない。次の授業を告げるチャイムが鳴っても、葦木場君は動かなかった。

「……逃げなくてもいいの?」

 鼻先を掠める葦木場君の唇の感触と優しい声に全身の力が抜けて、もう胸が痛いほど苦しい。触れる力も声も全部が優しいのに、体が動かない。

「逃げないよ」
「え、いいの?ナマエちゃん、本当に?」

 ゼロ距離から急に顔を離したと思ったら、葦木場君はびっくりして目を丸くした。そっちが言い出したくせに、その反応は何。身勝手すぎる振る舞いに無言の抗議を貫けば、ちょっと目を泳がせると葦木場君の長い腕がまたゆっくりと背中に回る。窮屈そうに背筋を丸めた葦木場君が少し可哀想に思えて、顔を上げた。
 さっきまでの驚いた顔はもう消えていて、真剣な眼差しに心臓が握りつぶされそうな気持ちになる。体に触れる掌の熱も、力強さも、私の全部を鷲掴みにする。それなのに、ゆっくりと重なった唇はとても優しく触れただけ。

「オレ、ナマエちゃんのこと、好き」

 ふにゃふにゃした笑顔で、顔を赤くしながら幸せそうに呟く葦木場君はわかっているんだろうか。

「それ、言う順番が違うよね」
「あれ?言った事なかったっけ?」

 小首を傾げてびっくりしている葦木場君に、きっとこの先も振り回されるんだろうなと思えば溜息をつきたくもなる。けれど、葦木場君の優しい腕の中に閉じ込められていると、細かいことはどうでも良くなってしまう気がして、「まぁいいか」なんて笑ってしまった。
 そうしたら、急に葦木場君が真っ赤な顔をして、私の頭を抱えてぎゅっと強く抱きしめる。息が止まりそうなほど、胸が高鳴れば頭上から困惑した声が降ってきた。

「急に至近距離で笑われたら、どきどきするからダメ!」

 無自覚で天然な彼との恋は、ちょっと大変そうだなと思ったけれど、照れた顔がとっても可愛かったから、「もういいや」って心の底から全部許せてしまう気がした。
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