葦木場のピアノに誘惑される

 テスト週間の憂鬱な気持ちを払拭してくれたのは優しいピアノの音色だった。靴を履きかけていたのに、聴いたことのあるクラシックに自然と足が止まる。聴いた事はある。でも曲名は思い出せない。もう一日頑張れば、テストも終わるから、今日は早く帰って嫌いな英語を頑張らなきゃいけないとわかっているのに、上靴を履き直して自然と足は音楽室へ向かった。テスト週間で部活動も休みだから音楽室には合唱部もいない。優しい音色に心が弾んで、自然と階段を駆け上がる。誰が弾いているかなんて、本当は知っている。一年生の時からテスト週間の合間にだけ、音楽室に現れる長身の彼がきっと今日もいるんだろう。
 邪魔をしないように、音を立てないようにそっと音楽室のドアを開ける。背中を丸めて左右に体をゆらゆらと揺らしながらピアノを弾いているのは、やっぱり自転車競技部の葦木場君だった。
 大きな体がメトロノームみたいに揺れる。ピアノの事は少しも詳しくないけれど、葦木場君が弾くピアノの音は柔らかくて好きだった。柔らかい音色も、気持ちよさそうにピアノを弾く彼の横顔も、あったかい陽だまりみたいで自然と足が向いてしまう。葦木場君はおっとりしているのに、気配にすごく敏感な人だ。いつも、こっそり聴きにきているけれど、絶対に気づかれる。今日もまた、ピアノを弾く手を止める事なく顔を後ろに向けて、私の姿を見つけるとニコリと笑った。一度なんて、いつも邪魔をしてしまうのが申し訳なくて、廊下に座って聴いていた事がある。けれどすぐに音楽室の扉が開いて「ミョウジさん、見つけた」なんて笑われてからは堂々と聴きにくるようになった。

「今日のミョウジさんは、どんな気分?」

 優しいクラシックを1曲弾き終えた葦木場君は、ふわりと笑った。いつの頃からか、葦木場君は私のリクエストを聞いてくれるようになって、密かなテスト週間の楽しみになっていた。大きな手に招かれて、ピアノに1番近い席に座る。

「明日の英語を倒したい気分」
「オレも英語、ちょっと手強そうなんだよね」

 葦木場君は困ったねぇ、なんて少しも困っていない笑顔を浮かべるとゲームで聞いたことのある曲を弾きはじめた。軽快な曲調に合わせて、ふわふわと長い前髪が揺れる。懐かしいゲームを思い出して吹き出すと、私の顔を見て満足そうに笑った。曲調が何度も変わって楽しくなる。思わず、どうやって弾いてるんだろうと葦木場君の手元を覗き込めば、ボスと戦う曲の最後が負けた時の音色に変わって、葦木場君が両手を上げた。

「英語、倒せてないじゃん」
「それはオレとミョウジさんの明日の頑張り次第かなぁ」

 歌うみたいに葦木場君の指が鍵盤を鳴らす。今度は映画の有名な曲。この前、テレビで放送していたから葦木場君も見ていたんだろうか。思わずつられて歌詞を口ずさめば、葦木場君はピアノを弾く手を止めて、椅子を軽く叩いた。

「オレ、この曲好き。ここで歌って?」
「え、恥ずかしいからやだよ」
「ミョウジさんはオレのピアノ聴いてるのにずるい」

 歌ってくれないなら弾かない、なんて拗ねた口調で言いながら葦木場君の指は鍵盤を奏でる。時々、チラチラとこっちを見るから諦めたように葦木場君の隣に座った。二人で座るにはピアノの椅子は小さい。端にそっと腰を下ろして小さな声で歌うと、葦木場君はニコリと笑って気持ちよさそうにピアノを弾いた。目を閉じて、ピアノの音色に身を任せる。恥ずかしいけれど、葦木場君と二人だけの秘密の時間みたいで、悪い気はしない。

「ミョウジさんの声、ふわふわしていて好き」

 ふにゃり、と笑った葦木場君の声は優しい。柔らかい声が重なるみたいに指先が絡まって、そのまま一緒に鍵盤に触れた。好き、という言葉の意味をどう捉えればいいかわからなくて曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。

「……私も葦木場君のピアノ、すごく好き」

 好きなのは声だけ?なんて、聞き返せる勇気はなくて。代わりに同じ温度だと思える言葉を返しながら、葦木場君と一緒に鍵盤に指を下ろす。葦木場君の長い指に誘われるみたいに音を鳴らせば、不思議と曲のタイトルが思い浮かんだ。

「好きなのはピアノだけ?」

 葦木場君がゆっくりと私の指を握りながら、首を傾げる。気のせいじゃなければ、繰り返し鍵盤を鳴らすフレーズは、さっき弾いていた映画のエンディング。主人公の男の子が好きな子に告白をするシーンが脳裏をよぎる。

「オレ、テスト期間ってちょっと楽しみなんだ。ミョウジさんと過ごす時間、嬉しいから」

 ふわふわと柔らかい笑顔の葦木場君は、それ以上は何も言わなくて。握っていた私の指を離すと、また静かにピアノを弾き始める。ゆらゆらと揺れる大きな背中。静かなピアノの音色が止まったら、私は彼に何を言えばいいんだろう。心の準備が出来ていないから、もう少しだけ葦木場君のピアノを今は聴いていたい。でもふわふわと揺れる気持ちも受け止めて欲しい。そんな、ワガママな事を思いながら、彼の揺れる背中に指でハートを描いた。
 一瞬、ピアノの音が止まる。ほんの少し振り返った葦木場君は照れたように「明日の英語、オレもうダメかも。頭、真っ白になった」と笑う。「……私も頭の中、葦木場君のことでいっぱいだよ」と小さく呟いた声、葦木場君にはちゃんと届いたかな。
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