IH直前、エース葦木場の本気

 葦木場くんのロードバイク。綺麗なピンク色のウィリエールは可愛くてかっこよくて、彼にとても似合っている。インターハイは絶対、見に行こうって思っていたし、誰よりも大きな声で彼を応援しようって思っていた。
 でも、インターハイまであと1週間と近づいた時に私が葦木場君から言われたのは思ってもいなかった言葉だった。

「ごめん。インハイが終わるまで、ちょっと距離を置いてもいい?」

 いつものふにゃっとした笑顔はなく。目尻を下げて困った時の顔でもなく。箱根学園のサイクルジャージを着て、愛車と共に真っ直ぐに立つ葦木場君を前に言葉を失ってしまった。
 視線を伏せた彼の中ではもう決定事項なんだろう。研ぎ澄まされた空気が葦木場君とロードバイクを取り巻いているみたいで、なんで?なんて言えなかった。

「メールも電話も、貰っても多分見ない」
「……うん」

 いつもだってそんなに見ないくせに。送ったメールに見てなかった、ごめんなんて3日後くらいにヘラっと笑って平気でいうくせに。でも、そういう事じゃないんだろうなって思う。

「オレ、エースだから」
「うん」

 ぎゅっと握りしめた葦木場君の拳は自分への鼓舞かもしれない。凛とした葦木場君の声に顔を上げれば、彼の視線はずっと遠くを見ていた。いつもみたいに、あの大きな体で包まれたかった。甘えるみたいに後ろからぎゅっと抱きしめてくれる葦木場君が大好きだった。

「だから、オレはチームの為に走る」
「……うん」

 背筋を伸ばして、真っ直ぐに立つ葦木場君が背負うもの。教室の机はいつも大きな体には窮屈そうで、長い手足を持て余している。でも、そんな葦木場君がロードバイクに乗ると、自転車は小さく見えるのに存在感は大きくて。
 風を切って、大きな体が左右に揺れながら進む姿は圧巻だった。

「オレ、インハイの間はナマエちゃんの事、考えないと思う」
 「……うん」

 ぎゅっと握りしめた拳が掴みたいのは、勝利であり栄光で。エースって存在はきっと重圧や責任感で私が想像するよりもずっと重いものを背負っているんだろう。

「もしかしたら、そういうのって傷つけちゃうかもしれないと思って。それなら、インハイが終わるまで離れてた方がいいって思う。あ、別れたいわけじゃないよ?」

 そんな事で傷つくほど弱くないのに、と思わなかったわけじゃない。でも、インターハイはやっぱり特別な場所で葦木場君が全てを賭けて戦いたい場所で。ほんのかけらも私にできる事は何もないんだって思うと、静かに頷いて物分かりのいい彼女でいるのが1番だと思った。

「葦木場君がそうしたいならいいよ。でも、インターハイは見に行く。応援もする。私は自分がそうしたいからそうする」
「うん。ありがとう」

 声が届かなくても、存在に気がつかなくてもいいよ、と伝えれば少しだけ申し訳なさそうに葦木場君は笑う。小さな御守りを渡したかったけど、一瞬受け取りかけたくせに彼は受け取ってはくれなかった。
 サイクルジャージの後ろのポケットに入れてくれないかな、なんて考えていたのは私の独りよがりで。「オレ、補給食取る時に落としちゃうから」と言われれば、差し出した手を引くしかなくなる。

「ナマエちゃんがさ、それは持って。レースの間、ぎゅっと握っていて欲しい」

 葦木場君の大きな手が不意に私の手を上から包んで、御守りごと包み込む。伏せた瞳の睫毛が揺れて、綺麗だと思った。

「わかった。ぎゅっと握って葦木場君のこと待ってる」

 頑張れとか、勝ってなんて言葉はピリピリと張り詰めた緊張感をまとった葦木場君には言えなくて。私にできる事は信じることくらいなのかな、なんて思えば少しだけ悔しい気持ちを飲み込む。

「オレ、すごく酷いこと言ってるよね」

 御守りごと、私の手を握りしめた葦木場君はその手を引き寄せる。ワガママでごめん、耳元で謝るのはズルイと思うけれど、不思議と腹が立つとか悲しいとか、マイナス感情はない。

「……そんな事ないよ。だってインターハイだし」

 抱きしめられた腕の中で視界を塞ぐのは箱根学園のサイクルジャージ。いつもよりも早い鼓動に目を閉じれば、葦木場君の緊張感が伝わる。顔を上げれば、やっぱり葦木場君の瞳は遠くを見ていた。
 真剣な眼差しに胸が熱くなるのは、ロードバイクに乗る彼が1番かっこいいから、とかそんな単純なものではなかったけれど。

「葦木場君は強いよ」

 思わず語気を強めれば、葦木場君は静かに頷いた。ゆっくり身体を屈めるのを感じて、そっと顔を上げる。葦木場君との身長差でキスをする時は、彼が屈んでくれなければ絶対に届かない。

「距離を置いてってオレが言ったのに、ごめん」
「……明日からに、しよ?」

 軽く触れるだけのキスをして。申し訳なさそうに呟いた彼に私なりの妥協案を告げれば、葦木場君は「物分かりよすぎだよ」と笑ったあとに力いっぱい抱き締める。
 髪をかきあげて、額に軽くキスを落として、噛み付くみたいなキスをする葦木場君に、言葉にできない思いを預けた。
 寂しいとか、そんな感情よりも葦木場君の勝利を切に願いたい。箱根学園、エースの葦木場拓斗は誰よりも強いってこと、インターハイで誰よりも信じてるから。
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