企画提出(お題 : 放課後 爪) 菅原孝支

 スマホを教室に忘れた、と気がついたのは正門を出てから。制服のポケットに手を入れて、いつもは指先に触れるはずのスマホがない事に気がつき、曖昧な記憶を必死に手繰り寄せればお弁当を食べた後に机の中に入れた事を思い出す。教室まで取りに戻るのは面倒だと思ったけれど、明日まで手元にない方が不便な事はわかりきっていたから放課後の教室へと一人戻った。待っていようかと友達は言ってくれたけれどバスの時間もあるし、今日はこのまま別れを告げた。
 階段を登って三年四組の教室に向かう。静まり返った廊下に夕陽が差し込んで優しいオレンジ色が空間を染める。微かに聞こえた烏の声につられて空に視線を向ければ、夕暮れの空を烏の群れが飛び立っていく姿が見えた。
 誰もいないだろうと気が緩んでいたのはあるかもしれない。鼻歌まじりに教室の扉を勢いよく開ければ、一番窓際の後ろから二番目の席で誰かが伏せていた。私の席はその隣。勢い余って開けた扉の音に驚いたのか、ゆらりと体を起こしたのは菅原くんだった。柔らかい髪がふわりと揺れた姿に思わず視線が釘付けになる。半分寝ぼけているのか、いつも笑顔を絶やさない菅原くんがトロンとした瞳で私をぼんやりと見つめていた。

「……試合、どうなった?」

 少し掠れた低めの声。いつもは割と明るくハキハキと喋る菅原くんの聞き慣れない声に驚いて、反応が遅れる。勢いよく開けておいて今更だけど、そっと静かに後ろ手に扉を閉めてから、菅原くんの席へと近寄った。いや、隣の席だから仕方がないし。好きな人の寝起きの顔を見たいなんて、そんな邪な考えはちょっとだけしか持ち合わせていない。

「菅原くん、ここ教室だよ」
「んー?」

 ふにゃり、と笑った不意打ちの菅原くんの表情に思わず胸がきゅっとなる。二、三度瞬きをすると教室の中を見渡して、菅原くんはゆっくりと私の姿を目で追いかけた。お互い少し気まずくて、無言で見つめ合ったのは三分くらい。不意に状況を理解したのか、菅原くんは大きな溜息をついて天井を仰いだ。

「……ごめん、ちょっと寝ぼけてた」

 咳払いをして片手で口元を覆いながら私に向かって頭を下げる菅原くんは少し照れくさそうに笑う。まだ眠気の残る顔で欠伸を噛み殺すと大きく伸びをした。同じ部活の澤村くんや東峰くんと並んでいると色白で華奢に見える菅原くんだけど、隣に並ぶと男の子らしい体格なのだと思う。

「俺、ミョウジになんか変な事言ったべ」
「試合どうなった?って言ってたよ。部活の夢見てた?」
「全然覚えてねーけど、なんか言ったなとは思ったんだよ。っつーかミョウジは何やってんの?」

 照れた顔で笑った菅原くんは枕がわりにしていた教科書を机の中へと押し込む。時計を見上げて17時を過ぎていた事に驚く彼は一体いつから寝ていたのだろう。

「忘れ物したから取りに来たの。菅原くん、背中に何か紙がついてる」
「え?紙?」

 制服の背中に黄色の付箋は目を引いて。取って、と言うように菅原くんは私に背中を向けた。正方形の付箋には何かボールペンでメッセージが書いてある。そのまま菅原くんに差し出せば、受けとるだろうと思っていたのに急に顔が近付いてきたからびっくりしてしまった。

「ん?これ大地の字じゃん。えーっと、スガへ。起こしても起きないから部活に先に行く。疲れているならさっさと帰って寝ろ……?」

 メッセージを声に出して読んだ後、菅原くんは崩れ落ちるように机に顔を伏せる。顔は横に向けて私の方を見ながら「大地のやつ、もっと気合い入れて起こせよー!」なんて、小さな子供みたいに急にゴネるから思わず吹き出してしまった。元々、ふわふわしている菅原くんの髪。よく見れば中途半端に前髪が上がっていて寝癖の痕だと気がつくと余計に幼く見えてくる。羞恥心と悔しさの滲む菅原くんの表情と声を聞いているとあまりに可愛くて顔が緩まずにはいられなかった。

「ミョウジにも寝顔見られちゃったし」
「え、寝顔は見てないよ!だって扉開けたら起きたじゃん」
「まぁ、俺はミョウジの寝顔はよく見てるけどね」
「え?」 

 菅原くんの隣の席に座って、机の中を覗き込みながらスマホを探していると思いがけない言葉が返ってきて、思わずピタリと動きを止めてしまった。菅原くんと隣の席になって二ヶ月目。思ってもいなかった状況に目が泳ぐ。大体、この席だってくじ引きだったけれど偶然なんかではなく、菅原くんの隣を引いたクラスメイトからジュース2本で譲ってもらった席なのに。

「……もしかして居眠りしてるの見られてた?」
「そう。俺は見ちゃったんだよ」

 隣の席になってから、菅原くんとは話す機会が増えたと思う。元々気さくな人だから、席替えをきっかけに自然と会話は増えて、ノートの貸し借りもお菓子のお裾分けも日常になった。

「ミョウジの古典の授業の時」

 菅原くんが不意に真顔になったと思ったら、急に大喜利みたいに姿勢を正すと黒板に向かって真顔になる。シャープペンを持つ横顔は真剣そのものなのに。ふざけている時と真剣な時のギャップに去年の今頃、恋に落ちた事を懐かしく思った。

「真顔で授業聞いてると思ったら、秒で寝てる」
「……それ、私の真似なの!?」

 急に菅原くんが目を閉じたと思ったら、手にしていたシャープペンがころりと机に転がって。カクン、と頭を揺らした数秒後に静かに顔を上げた菅原くんは何もありませんでした、みたいな顔でシャープペンを握り直す。そんな行動を二、三度繰り返した後に私の方を見て、ニカっと笑った。

「俺も最初は寝てるって思わなくて話しかけてたんだけどさ。ミョウジ全然気付かないし、むしろその後寝てませんけど?みたいな顔で授業受け出すから面白くて」

 ちなみに今日の5限目も見た、と衝撃的な発言を聞いて今度は私の顔が赤くなる。思わず慌てて机の中に手を入れたらプリントが指の腹を滑って、ピリッとした痛みが走った。思わず顔を顰めたら、菅原くんは自分の言葉に気分を害したと思ったのか慌てて「ごめん!意地悪すぎた?」とフォローを返してくれる。
 古典は苦手で授業が始まってからはいつも静かに自分との戦いを繰り広げていたけれど、隣の菅原くんにバレていたなんて。

「バレてないと思ってた」
「他の授業で寝てるとこ見たことないし、隣の席にならなかったら気が付かねぇべ」
「古典だけは本当苦手なんだよね。頑張って起きようと思うんだけど、気がつくと寝ちゃう」
「まぁ、気がついてるのは俺だけだと思う。ミョウジ、授業中に居眠りするタイプじゃないと思ってたし」
「菅原くんは居眠りしてるの見た事ない」
「たまにはあるよ?朝練やった後とか、弁当の後とか」
 
 机の中のスマホをポケットに入れる私の横で、菅原くんは不意にカバンを開けると何かを探し始めていた。さっき痛みが走った指先に視線を落とすと、右手人差し指の腹が切れていてじんわりと血が滲む。紙で切ると見た目より痛いから、指先に熱がじりじりと集まっていた。

「ミョウジ、指見せて。切ったんだろ」

 見せて、と言われた時にはもう菅原くんに手を掴まれていて。慌てて手を引こうとした時には菅原くんの指が手首に回っていた。思いがけない大きな手にびっくりして何も言えなくなっていると、菅原くんは傷口をじっと見つめる。
 
「あー、もうパックリ切れてるじゃん。紙で切ると痛いんだよなぁ。とりあえずコレ貼っとくべ」

 言うが早いか、菅原くんはカバンから取り出した絆創膏を丁寧に指先に貼ってくれた。小さな傷なのに丁寧に優しく扱われて、胸がドキドキしてしまう。これはやばいなぁ、と思った時にはもう遅い。恐る恐る顔を上げれば、ニカっと笑った菅原くんの笑顔に打ち抜かれた。
 絆創膏を貼ってくれた菅原くんは「ミョウジの爪、小さくね?」なんて呟きながら、私の手をひっくり返して優しく触れた。

「そんなに小さくないと思うけどなぁ。菅原くんが大きいんじゃない?」
「俺も普通だと思うけど。まぁ、普段見てるのがゴツいのばっかりだから比較出来ないか」

 向かい合って並べた二つの手。思っていたよりも菅原くんの手は大きくて指も長い。形の良い爪は綺麗に切り揃えられていて少しも指先は荒れていない。

「なんかミョウジの爪、ピカピカしてる。なんか塗ってんの?」
「磨いてるだけだよ。マニキュアは身だしなみ検査で呼び出されるからやってない」
「へー。磨いたらこんなピカピカになんの?すごくね?」
「菅原くんも手、綺麗だよね。爪も大きいからマニキュアも塗りやすそう」
「俺、オレンジ色とか好きよ。今度磨いてくれる?」

 そんな軽口を叩いて笑うくせに、菅原くんはとても大切そうに自分の指先に触れる。彼にとって5本の指は仲間を支えるための大切な場所で、宝物だ。爪を綺麗に切り揃えるのも、セッターはトスを上げる時に爪が引っかかる事を気をつけているって以前教えてもらった事がある。時々、朝練の後に爪の手入れをしている事も、ハンドクリームで保湿している事も本当は知っている。『スガ、女子力たけーな!』なんて友達にふざけて言われても「だべー?」なんて明るく笑い飛ばす彼はセッターである為に少しの努力も惜しまない人だった。
 本当はもう少し、このまま一緒に他愛もない話をしていたい。でも、時々時計を気にして目線が動く菅原くんを見ていると、いつまでも引き留めてしまうのは申し訳なかった。

「絆創膏ありがとう。菅原くん、部活行くんでしょ?」
「今更行ったら大地に怒られそうだけどなー。ミョウジは帰るんだろ?」

 開けたままにしていた窓を閉めて、荷物を背負って。私の切れた指先の心配をしてくれて。体育館へと続く渡り廊下まで並んで歩く。

「ミョウジ、気をつけて帰れよ」
「うん。菅原くんも部活頑張ってね」

 軽く手を振ってくれた菅原くんは、私に背を向けた瞬間に体育館へと走り出す。柔らかい髪が揺れてオレンジ色の夕陽を受けてキラキラ輝くのをいつまでも見送りながら、やっぱり彼のことが好きだなぁと実感する。

「……爪、帰ったら綺麗にしよ」

 菅原くんが褒めてくれた事が嬉しくて、絆創膏を貼ってくれる優しさが大好きで。小さな欠片でも彼の目に留まった事が嬉しい。
 誰もいなくなった廊下で一人、小さな鼻歌を口ずさみながら、菅原くんの放課後をほんの数分でも独り占めした幸せを噛み締める。彼の指はチームを支える大切な場所。菅原くんの一番大切なものは部活であり仲間で、大好きなものはバレーボールだと近づくほどに思い知らされるけど。
 そんな菅原くんの事が大好きだから、一方通行の恋だとしても、爪先ほどもこの恋を私が後悔する事はきっとないのだろうと夕陽を見上げながら一人、頷いていた。
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