酔っ払った同棲泉田くんは糖度が高い
「ねぇ、ナマエさん。抱きしめてもいい?」
甘く蕩ける笑顔と凜とした声。玄関を開けたらいつも真面目な恋人が両手を広げて抱擁待ちをしていたら、あなたはどうしますか、と謎の問いかけが脳裏に浮かんだ。少し紅潮した頬以外はいつもと変わらない塔一郎くんだけど、彼の背後にはとても気まずそうな顔をした後輩が視線を泳がせているのは不思議な状況だった。
「……あの、遅い時間にすみません」
「銅橋、君も待つ人がいるんだろう?ボクの事はいいから君も早く帰った方がいい」
キリッとした顔で後輩の銅橋くんに告げている塔一郎くんはどう見ても送ってもらった方だろう。尊敬する先輩の言葉に若干の戸惑いを見せた銅橋くんと目があって、思わず申し訳なさに頭を下げてしまった。
握りしめたスマホの画面に表示された時間は深夜1時。一瞬、自分が寝ぼけているのかと思って頬を抓ってみたけれど普通に痛かったから、やっぱり夢じゃない。塔一郎くんはいまだに両手を広げたままだし、真顔で気をつけて帰るように銅橋くんの事を心配しているから、彼が普段見たことがないくらい酔っているのだと理解した。
「……塔一郎くん、あの、銅橋くんが困ってるよ」
「いや、オレは何にも見てないです。すいません、オレ帰るので後はよろしくお願いします」
「ありがとう、銅橋。また、ゆっくり食事に行こう」
塔一郎くんの言葉に顔をあげた銅橋くんは嬉しそうに笑うと、少し大きめの声で「はい!」と返事をした。けれど深夜である事を思い出したのか、慌てて口元を押さえると小さく頷き直す。見た目よりも常識人の銅橋くんが部屋を出ていくと、塔一郎くんはロックをかけながら「ナマエさん、遅くなってごめん」と目尻を下げた。
そのまま靴を脱いで上がってくると思ったのに、塔一郎くんはまたその場で手を広げた。
「……抱きしめてもいいかい?」
ふふっと笑った目元はほんのり赤くて、いつもよりも潤んでいて。長い睫毛を伏せると影を帯びる目元がお酒のせいなのか、いつもよりもどこか色っぽい。
基本、恋人の塔一郎くんは真面目な人だ。同棲する時も、部屋を探す前に彼が一番最初にした事は私の両親の了解を得る事だったくらい。
『ナマエさんをボクに預けて頂けないでしょうか』
同棲に関しては学生時代から付き合っていて、私の両親とも面識もあるし信用されていた塔一郎くんが今更反対される理由なんてなかった。けれど、けじめは必要だからと爽やかな白シャツを纏い、真顔で菓子折りを持参して私の実家に現れた彼に両親は心底驚いていた。「あれはもうプロポーズだと思った」と後に私の家族が茶化した時には「その時は改めてご挨拶に来ます」とさらりと返した塔一郎くんに、うちの両親は「こちらこそ、末永くお付き合いお願いします」と思わず涙を浮かべたのを見た時は、不思議な光景だった。
そんな生真面目な彼が酔っ払って帰宅するという珍しい状況の中、玄関で両手を広げてハグ待ちをしている。塔一郎くんだって、仕事の付き合いや友達と居酒屋に行く事はあるしお酒を飲んで帰ってくる事だってある。どちらかといえば、潰れてしまった友人や先輩達のフォローに回る事が多い人だから、よほど今日は浮かれていたのだと思った。
「塔一郎くん、今日は楽しかった?」
「うん。久しぶりに先輩達にも会えて色々話せたからね。とても楽しかった」
いつまでも両手を広げて待たせている事も申し訳なくて、少し恥ずかしいけれど、求められるままに塔一郎くんの胸にそっと寄り添う。そっと背中に両手を回せば、額に柔らかい唇が触れて、塔一郎くんもぎゅっと私の背中へと手を回した。いつもと同じ、ちょっと遠慮した優しい力加減の抱擁はどこかくすぐったくて気持ちがフワフワする。
「……ねぇ、ボクはナマエさんの事、とても大好きなんだけど、ちゃんと愛情を伝えられているのかな」
大きな手は私の腰へとゆっくり回って、耳元で囁かれた切ない声色。悩ましげな溜息に驚いて顔をあげれば、塔一郎くんは耳まで真っ赤になっていて、潤んだ瞳にドキドキしてしまう。
「塔一郎くん、相当酔ってる?」
いつもとは少し違う雰囲気の彼に翻弄される自分がいる。これがもし塔一郎くんじゃなかったら、深夜1時過ぎに酔っ払って帰宅した挙句に玄関で愛を囁くとか、同棲彼氏としては迷惑な話だと思う。でも、塔一郎くんだと許せてしまうのはなんだろう。いつもとは違う、どこか甘えたような面倒な言動と行動が新鮮すぎて、ちょっと嬉しいなんて思ってしまう。お酒や揚物と混ざるメンズ香水や制汗剤の香り。色んなタイプの先輩や友達、後輩と楽しかった時間を過ごしてきたんだなぁと思わせる塔一郎くんのシャツの残り香に思わず顔が笑ってしまった。
正直、お風呂も終わって後は寝るだけの状況で、この複雑な香りで抱きすくめられるのは本音を言えばご遠慮したい気持ちもあるけれど、慈しむような眼差しを注がれて、この腕の中から抜けるのはあまりにも惜しい。
「どうなんだろう。酔っているのかもしれないね」
ふふふ、と柔らかく笑った塔一郎くんを見て、これはやっぱり相当酔っていると思ったけれど、珍しい彼の姿が貴重でそこには触れない事にした。
「ちゃんと塔一郎くんの気持ちは伝わっているよ。いつも大切にしてくれてありがとう」
「……ボクの愛情表現は友人や先輩方に比べると薄いような気がしたんだ。その、ナマエさんは物足りなくなったりしないのかなと、思って」
優しく髪を撫で付けながら、真っ直ぐな視線で見つめてくる塔一郎くんの瞳は私だけを見ていて。それは学生時代と変わらない、真っ直ぐな曇りのない瞳。この瞳に見つめられて、その気持ちを疑った事など一度もないし、確かに感じる愛情は言葉よりもずっと深く心の中に染み込んでいくのに。
「ボクはナマエさんが大好きだよ」
唇に一つ、触れるだけのキスを落として、塔一郎くんは静かに微笑む。
「ナマエさんといると、とても幸せな気持ちになるし、明日も頑張ろうと思う」
柔らかく微笑んで、もう一度触れるだけのキスをすると、いつもよりも強い力でぎゅっと抱きしめながら「ボクと一緒に暮らしてくれてありがとう」と塔一郎くんが微笑んだ。迷いのない真っ直ぐな瞳に思わず心臓を鷲掴みにされた気がして、思わず彼の逞しい胸筋に顔を押し付けてしまった。シャツが若干色んな匂いが混じって気になるとか言っている場合ではない。
「……と、とりあえず部屋の中に入らない?」
もう恥ずかしくて、ドキドキして耐えられる気がしなくて彼の袖を引けば、ピクリとも彼の体は動かない。
「ごめん、あともう少しだけこのままでいさせてくれないかな。今、離したら少し寂しいような気がする」
今日のボクはどうしたんだろう、なんてポツリと呟いた塔一郎くんに「酔っているからだよ!」とはとても言えなくて。靴を履いたまま、狭い玄関で優しく彼に抱きしめられながら深夜1時過ぎの抱擁はその後も割と長かった、なんてきっと誰にも話す事はないと思うし、私以外の誰も知らなくて良いと思う。
翌朝、いつもよりも少し遅く起きた塔一郎くんが「昨日はごめん」と真っ赤な顔で口元を押さえていたから、彼は記憶に残るタイプなのだと知り、私も彼以上に照れてしまって、二人で真っ赤になりながらふわふわのオムレツを食べた事は忘れられない幸せな思い出の一つになった。