小説 | ナノ
−−明治ニ年、六月



毎日、夕餉の仕度をしながら愛する人の帰りを待つ。
叶わないと半ば諦めかけていた夢は、何時の日にか夢では無くなった。






『ただいま。千鶴、居るか?』


玄関から左之助さんの声がする。
今日は少しばかり帰宅が早い気がする。
不思議に思いながらも仕度の手を止め、お迎えに上がる。


「お帰りなさい。お勤めご苦労様です。お風呂ならお仕度出来てますけど…」

『いや、ちょっと出掛けたいんだが。千鶴、おまえも一緒に来てくれねぇか?』

「私も、ですか?」

『あぁ。そんな遠くへは行かないが、寒さが身体に障るから暖かい恰好でな』


私の腹部を優しい手つきで撫でながら、左之助さんはにっこりと微笑んだ。












「あの、本当に何処まで行くんですか?」

『もう少しだ』

家を出た私は左之助さんに手を引かれるまま、傾く陽の橙だけを頼りに歩みを進めていた。
先程から何処に向かっているのかを問うても『着けば分かるから』と、まともに取り合ってはくれない。
ちらりと見た左之助さんの横顔は、心なしか楽しげに見える。


『さて、そろそろ着くな。千鶴、悪いけど目を閉じてくれ。転ばないように手はしっかり握るからよ』

「はい」




そういえば昔にも同じような経験がある。
あれは送り火を二人で見た夜。
私に見せたい物があるからと手を引いて連れて行ってくれたのは、数え切れない程の蛍が居る河原だった。
あの時から少しも変わる事無く、彼は優しく私の手を引いてくれる。






『さぁ、着いたぞ。ゆっくり目開けな』

暗闇の中、とても優しい声に促され、私は双瞼を静かに持ち上げる。

「こ、れ…は?」

『驚いたか?』

そうして目の前に広がるのは、見た事もない形をした白い建物。


『これは教会と言ってな。こっちの奴らは、皆ここで祝言を挙げるらしい』

「…そうなんですか」

言われてみれば、確かにどことなく神聖な雰囲気があるような気がする。

『入ってみるか?』

「えっ?か、勝手には駄目ですよ!」

『大丈夫だ。ちゃんと許可は貰ってる』

ほら、と広げられた彼の大きな掌には小さな鍵が乗せられていた。

「それなら…入ってみたいです」

『よし。じゃあ行ってみるか』



再び彼は私の手を取ると、巨大な扉へと向かって歩き出した。






















「わぁ。素敵ですね」


中に一歩、足を踏み入れると何時の間にか昇っていた月が
赤や青、黄色などに色付いた硝子に淡い光を放っていて、見事なまでに幻想的な世界を作り出していた。


『千鶴、こっちに来てみろ』


私が素敵な装飾に目を惹かれている間に、左之助さんは深紅の絨毯の先に一人佇み、こちらに向かって手招きしていた。
私は絨毯が汚れてしまわぬよう、慎重に歩みを進めながら彼の元に向かった。



「どうしました?」

『……千鶴』

「はい」

『これから俺達の祝言を挙げようと思う』

「えっ?」



祝言を挙げる?
左之助さんの口から紡がれたのは、思ってもみなかった一言。



『本来なら夫婦になるには祝言を挙げるだろ。しかし、俺達は挙げてない。それをやってないってのは女の幸せを一つ叶えてやれてない事になる』

「私は気にしませんよ?」

『いや、気にする気にしないの問題じゃねえ。子を孕ませておいて言うのもあれだけど………俺は、男としてきちんとけじめがつけたいんだ。だから千鶴、』

左之助さんの表情が一際真剣なものに変わる。
そんな彼につられ、私も自然と姿勢を正した。




『お前も腹の中の子も死ぬまで守ってやる。三人で幸せになろう』

そう言って左之助さんは私の左手を取った。

『これは指輪と言って、夫婦の証なんだとよ』

直後、薬指にひんやりとした感触が宿ると、そこには月明かりに照らされてきらきらと輝く銀の輪。

『俺の分は千鶴がはめてくれ』


差し出された指輪と左之助さんの手を取り、彼の所作を真似て彼の薬指に指輪をはめた。













愛する人の隣に居る。
その人の子を産める。
今だって充分過ぎるくらい幸せなのに、こんなにも欲張ってしまって罰が当たらないだろうか?
そうして溢れ出す想いは涙という形になって、とめどなく頬を濡らす。








『な、なんだ?なんで泣くんだ?』

「これは……嬉し泣きです」

言いながらきゅっ、と目尻を拭う。

『…馬鹿。お前の涙を拭うのは俺の役目だろうが』


左之助さんの口唇が私の瞼にそっと口づけを落とし、雫を吸い取る。



『千鶴』

「はい」

『愛してる』

「私もです」







降り注ぐ月光の下、私達はそっと口づけを交わした。




約束は左指



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