鉢雷(現代)

※少しだけシリアスモード

丁寧に抱えてきたショップバックを机に下ろすと、僕はさっそく梱包された箱を取り出した。指先が、ドキドキする。さっき店でさんざん見て、むしろ見飽きたくらいだというのに、まだ見ぬものを見つけた時のような高揚感。早まる鼓動と共に箱を開ければ、分厚い取り扱い説明書がまず目に付いて、その昂ぶった気持ちが少しだけ萎んだ。

(どうせ、見ないんだよね)

文庫本よりもずっと厚みのあるそれを見ることはなくて。いつもは使っていくうちに、なんとなく機能が分かってくる。壊れた、と思った時は店かサービスセンターに問い合わせるし。そもそも、保証書はともかく取り扱い説明書なんて、一人暮らしの狭い部屋には置いておく場所なんてないだろう。

(けど、捨てられないんだよねぇ)

いつか使うことがあるかもしれない、その考えが頭の中を過るのだ。見ない、いや、見る、とせめぎ合う考えは一歩も譲らず、僕の頭の中をぐるぐる走り回る。それでもって、分けが分からなくなるのだ。まるで、自分の尻尾にじゃれついて追いかける子犬みたいに。

(その結果が、これなんだけどね)

捨てれないのは、何も取扱説明書だけじゃなかった。踏ん切りをつけるために、自室を見回してみれば、ごちゃり、とガラクタの山が目に入って、自身に悪態を吐く。ペットボトルなんかに付いてくるおまけとか、僕が捨てれずにいるものが部屋のいたるところにある。いざ、『捨てる』と決断してしまえば、そこからは何のためらいもなくゴミ袋に突っ込んでしまうから、いつも汚部屋になってしまうわけじゃない。けれど、昔から整理整頓が苦手というか、どうしても、色々な物をため込んでしまうのだ。

(前の携帯電話も持って帰ってきちゃったしなぁ)

ロゴ入りの紙袋の隅の方で転がっているそれは、ぼろぼろになっていた。光の加減ではっきりと分かる傷や塗装が禿げた個所。保護フィルムを貼っているにもかかわらず液晶画面はくすんだ玉虫色の膜があるし、ストラップを通す部分には、飾りが千切れてなくなってしまったまま黒い紐の部分だけが引っ掛かっている。愛着がこみ上げ、僕はそれを手に取った。

「もう絶対に使わないのになぁ」

きっと電源を入れることもなく、このまま過去に埋もれていくことは分かりきっていた。それでも、店側のリサイクル協力(何やら貴重な金属類が含まれているらしい)に応じなかったのは、思い出がたくさん詰まっているような気がしたから。初めての電話、喧嘩の後に残された留守録、保護したメール、彼だけの着信音、おそろいのストラップ、彼が写る動画や画像、出かける時に調べた電車の時刻-------------彼の、三郎の痕跡が残る携帯電話。棄てれない思い出。

(このまま、棄てることもなく、ひっそりと過去に埋葬されるのだろう)

再び電源を押して光を灯す予定のない、漆黒の画面にそう思う。電話帳以外のデータは新機種には移動させれないのでメモリカードに保存しておくのを店員さんに勧められたけど、しなかった。新しい携帯に移せば、ずっと、三郎のことを引きずりそうだったから。別れた三郎のことを。

(……今頃、どうしてるだろう)

覚えているのは、別れの言葉そのものよりも電話越しに感じた最後の空気だった。息遣いの息を呑むのとか、言いよどんで詰まった感じとか、いつもより低い声とか、全部、ダイレクトに伝わってきていて。静寂をラインが繋げる時の空気は、すぐ隣で話してる時よりも、ずっとリアルなような気がした。

---------嘘じゃないんだ、これで最後なんだ、と思い知らされた。

着信やリダイアルの履歴を見るたびに、メールで「さ」という文字を打つたびに、ぎゅ、っと胸が苦しくなる。履歴から消えてしまった彼の名前。ゆっくりと後方に追いやられていく予測変換の「三郎」の文字。あの日から、一度も、三郎とは連絡を取らないまま、次の季節を迎えようとしていた。地面に埋没したものが長い年月をかけて化石となるように、このままこの小さな機械に仕舞って、三郎とのことはゆっくりと過去にしてしまって、いつか懐かしく思える日が、

(……本当に、来るのだろうか?)

今ならまだ前の携帯の電源を押せば、残っている電池で過去に、その中に眠る『三郎』に会うことができる。その思いで一心に伸びかける指を、ぐっと、拳を握るように中に織り込んだ。黒濁したディスプレイに映る自分は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。ゆっくり、息を吐き出し言い聞かせるために、声にする。

「……早く、新しいのを出そう」

このままでは過去に浸ってしまう、と取扱説明書の下で眠っていた真新しい携帯電話を取りだし、断ち切った。流線型のフォルムは、すぽり、と手の中に収まった。どうせ汚れるのは分かっていたけれど、なんだか、もったいなくて、できるだけ指紋を付けないように爪の端で折りたたまれたそれを押し開ける。カチリ、と小気味の良い音が響いて、ぴかりと光る黒い画面が現れた。電源を入れれば、目が眩むほどの新鮮な光が画面から放たれる。

(やっぱり、最新機種ってすごいなぁ)

久しぶりに変えたせいか、以前のものよりもずっと多くのツールが入っているのだ、とメニューボタンからの分岐の多さに驚きを覚える。それでも、きっと自分が使うのは電話とメールと、時々、ネット。あとは、目覚まし代わりのアラームくらいだろう。取扱説明書は一応傍らに置いたものの、やっぱり、適当にボタンを押す自分がいた。

(これでアラームは鳴るはず。あとは……)

「あ、そうだった。新しいメルアド、教えないと」

どこから漏れたのか、最近、迷惑メールがフォルダに溢れかえるようになっていて。機種を変更するついでに、メールアドレスも新しいものに変えたのだ。アドレス変更を知らせる簡単な文面を新規メールに打ち込み、それから一斉送信をしようとtoの欄をいじる。そのまま全部に一括送信しようかと考え、けれど、ふ、と見覚えのない名前に気持ちが削がれた。

(結構、これ、誰ってのがあるよなぁ)

お店のお姉さんに「新しい電話帳、お移ししておきますね」と言われてそのまま頷いた新しい携帯には、代々のアドレス帳が引き継がれていて。高校を卒業してから一回も連絡を取ってない人とか、授業の関係でアドレス交換したけれど、その期間に数回メールしただけで今は全く接点がない人もたくさんあって。登録するときにグルーピングをしとけばよかったのだろうけど、とりあえず、って感じて増えていって、収集がつかなくなっていた。

(今、整理しておかないとまずいよなぁ)

迷い癖で大変な目に合うのは分かり切っていたことだったけれど、今後のために、と新しいメールアドレスを知らせる相手を選ぶことにした。もう関わることがない、連絡先を知らなくても困らない相手については、なんとなく心苦しいけど、アドレスから削除していくことにする。棄てる、と割り切ってしまえば、そんなに時間が掛かることはないだろう。

***

(そう思っていたはずなんだけど、はぁ)

一旦、自分の中でアドレスに残す基準が明確になれば、その後は迷うことはなくスムーズに進んでいった。けれど、メールを送る作業を終えれば、すっかりと辺りは闇に暮れていた。アドレスの変更を了解してくれた友人たちからのメールに返信していたら、いつの間にか時が過ぎていたのだ。途中で、暗くなった部屋の灯りを付けたけれど、それでも自然の太陽には勝てない。翳のある明るさの中で、携帯電話が発するくっきりとした光に射られた目はちょっとだけ痛い。

(やっと終わった、のに)

苦労して相手を選んでメールを送り続けたのだ、本当なら感じるはずの達成感は、全くなかった。最後の一通、そのせいで。宛名には、久しぶりに見た三郎の文字。点滅するカーソルは自分の迷いのようだった。けど、ここで送らなければ、完全に三郎との繋がりが消えてしまう。そう思った瞬間、僕の指先は送信ボタンへと疾っていた。

***

揺れる『送信中』の文字に、今さら、心臓を打ち鳴らすスピードが上がっていく。

(どうしよう、送っちゃった)

取り消そうにも中止を選ぶ間もなく『送信完了』の文字が並ぶ。何度送信ボックスを見たところで、彼の名前が失せることはない。携帯を握りしめながらそう自分に言い聞かせる。どうせ三郎にとっても過去の人なのだ、きっと、メールなんて読まれることもなく棄てられる、と。

「っ」

不意に、掌で携帯が震えた。ディスプレイに刻まれた名前に、息が止まる。三郎、だった。緊張に固まる指先で通話ボタンを押すと、ざ、っと電話の向こう、三郎の気配が耳に飛び込んできた。

「もしもし、雷蔵、だろ?」

彼の携帯から僕の携帯から掛けているはずなのに、わざわざ確認してきた三郎に、どうしようもない愛しさが浮かび上がってくる。上手く言葉にならなくて、相槌しか打てない。

「……うん」
「メール、さっき見た」

別れた相手からのメールだなんて三郎はどう思っただろうか、と不安になってきて「うん。アドレス、変わったから。けど、電話番号は変わってないから」なんてメールで送った文面と同じようなことを口走った。すると、電話口で彼が小さく笑ったのが、揺れた空気で伝わってきた。以前と変わらない気がして、愛しさがさらに込み上げてきた。棄てることのできなかった三郎への想いが。

「あぁ、連絡、ありがとうな」

はた、と気付く。メールアドレスを教えなくても電話番号で繋がったままだった、と。けど、その一方で確信があった。この電話がなければ、僕と三郎のラインが交差することは二度となかっただろう、と。

「登録、し直しておいてくれる?」

ひそ、と尋ねれば「あぁ。直しておくよ」と三郎は答えて。-----不意に、彼の声が大きくなった。

「あのさ、雷蔵」
「うん」
「あの日のこと、後悔してる、って言ったら、君は笑うかい?」







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