鉢雷(現代)
やわらかい深海より2年くらい前の話
雨になるとこの辺りの音は息を潜める。寄せては返す波音も、喚き続ける海鳥の鳴き声も、船の警笛やエンジン音も。いつもなら、騒々しいまではいかないがそれなりにざわめいているそれらも、拡散し反響し合う前に、発せられたと同時に萎んでいく。全ては雨に吸い込まれ海に還ってしまったようで、とても静かだった。
(雨は嫌いじゃないんだがな)
開けっぱなしの窓の向こう、随分と低い位置に居座る雲は鈍色に滲んでいた。湿り気が混じっているせいか、入り込んでくる潮風が重たい。雨音は聞こえてこないけれど、普段よりも一層濃い潮の匂いに、まだ降っているのだろうと容易に想像できた。べっとりした空気はともかく、雨の日の静けさは嫌いじゃなかった。何もない、寂れて一見静かに見える町は、静かだからこそ、うるさかった。一度、細波立ってしまえば、いつまでもその余波が耳鳴りのように続く。噂は噂を呼び、次々と波紋が広がっていく。人の噂も75日、ということわざがあるが、この町ではそれは通用しない。本筋とは随分遠いところで一人歩きしてしまい、尾ひれはひれと巨大化してしまうのだ。そうなれば、どうすることもできない。------けど、雨の日は、それすら全部、海に吸い込まれたんじゃないか、って思えるくらい静かだった。
(だから、嫌いじゃないんだがな……暇なのがなぁ)
掌を枕代わりに頭を支えながら仰向けになり、内心で呟く。内心、というのは、口に出した所ですぐに静けさに溶け消えてしまうからだ。日頃に耳に障るくらいの生活の音ですら、雨と共に霞んで消えてしまうのだ。独り言など、あっという間に静寂に呑みこまれて、何事もなかったかのようにされてしまうのだろう。それは、あまりに淋しく、そしてどこか当たり前に思える想像だった。
(あー、暇)
もう一度、心の中に吐き出し、体をぐるりと反転させる。今度は横向きになり、二の腕へと頭を収める。と、日焼けしきって緑から黄色を通り越し、茶色へと変色している畳が視界に入った。特にすることもなく、なんとなく、その畳の目を数えながら遠くに視線を繰り上げて行くと、すっかり朽葉のような色合いの畳に、机か何かを引きずったかのような跡が残されているのが目に留まった。
(そーいえば、そのうち畳替えか。面倒だな)
今、自分が寝転がっている部屋は、自室ではなかった。鉢屋の家が夏場に営んでいる民宿の一室。海に面した、一番眺めのいい部屋だった。そんな客室に自分がいることができるのも、今はオフシーズン真っただ中だからだ。めぼしいものが海水浴場しかないこの町は、観光客のほとんどが夏場に集まる。季節はゆっくりと熱に焦がれてきてはいるものの、もちろん、海に入水することはできない。海開きは、来月だった。こんな中途半端な時期にであれば海釣りに来るおっさんらが素泊まりに使う一番安い部屋ならともかく、この部屋が使われることはない。
(どーせなら、こんな暇な日に、畳替えでもすればいいんだけどな)
ただでさえ寂れている風情をますます助長しているのが、この日焼けした畳の色合いだった。哀愁を醸し出しているそれは、海開きの直前、客室全部に渡って替えられる。夏の間だけ、ぴかぴかの草の匂いが漂うのだ。その手伝いに駆り出されることは長年の経験で分かっていた。こんな退屈な日なら喜んで、とまではいかないが、まぁ、手伝う気になれる。けど、実際に行われるのは、カビ防止のためにいつだって晴天の日なのだ。しかも雷蔵と遊びに行く約束をした日に限って、鉢屋家の一大行事である畳替えが行われる。
(雷蔵、)
ふ、と思考に浮かんだ彼の名は、あっという間に私を捕えた。寄せては返す波が途切れることがないのと同じように、一度彼のことを思えば、己から切り離すことなどできない。自分にとって、彼はそういう存在なのだ。
(雷蔵はどうするんだろうな?)
休み明けに提出期限が迫っていた進路希望調査の存在が頭にちらつく。最初から答えは出ているのだ。この町に連れてこられて以来、『外に出る』が口癖だったのだから。行先は後回しにして、とりあえずそのことだけでも書いておけばいい。迷うことなどなにもない。--------はずだった。真っ白の紙は鞄の中に眠らせてある。
(つくづく自分らしくない)
別に何も書かずに出すことも考えれたが、最高学年に上がり教師の攻勢も強まってきたことから後々の事を考えると得策とはいえない。そう頭では理解していても、ペンを持つと、そこから進めなくなるのだ。
(……さよなら、が嫌だなんて)
***
別れることに、慣れているはずだった。夏場の観光業が主力となっているこの町に連れてこられて、おまけに家が民宿を営んでいるとなれば、当然、人の出入りは激しい環境に置かれて育ってきた。昼過ぎにやってきて、次の朝にはいなくなる。その繰り返し。淋しい、なんて感情を持つことはなかった。時には、一週間ぐらい滞在していく人もいて、仲良くなることもあった。話をせがむ私を可愛がってくれる人もいた。『外』に出たいと希う自分にとって、彼らの話はとても鮮やかに映った。だが、そうやって親しくなった人とも、そのうちに別れの朝がやってくる。ぱんぱんに詰め込まれた荷物と真っ黒に焼けた顔で「またな」と。それでも、淋しい、という感情よりも、もう話が聞けないのか、という残念な気持ちの方が先だった。
(私と違って、雷蔵は泣いてたけどな)
自分が雷蔵の家の店である本屋に入り浸っているのと同じように雷蔵が私の家の民宿にしょっちゅう遊びに来ていて。よく客に双子と間違えられたものだ。同い年で必然的に一緒にいるから、雷蔵も私と同様に(いや私以上に)客に可愛がってもらっていて。そんな彼らがいなくなると、しゅん、と雷蔵は萎れてしまうのだ。見送りの時に泣いていたことも、二度や三度じゃなかった。
(きっと、それが雷蔵らしい所なんだろうけど)
そんな雷蔵の透いた心の部分を誰よりも愛しいと思う反面、きっと、自分は決してそうはなれないのだろうと痛感していた。「またな」という約束が果たされることよりも、二度と現れることがなかった人の方が多いけれど、それを淋しいと思ったことは一度もなかったから。出会いがあれば別れがある。それが当然だった。その乾いた関係が自分には丁度良かった。ひっそりと閉塞された空間だからこそ感じる煩さよりも、よほど自分に合っていると思っていた。別れが淋しいだなんて、一度も思ったことがなかった。
(けど、)
今、自分が抱え込んでいる感情はただ一つ。『雷蔵とさよならをしたくない』ということだけだった。
前 次