鉢雷(現代)

古くなったスピーカーから下校を促す音楽が流れ出し、静謐の中に取り残されていた空気が揺らいだ。それまで一枚絵のように止まっていた風景が一斉に動き出す。本を閉じる音、ノート類を揃える音、椅子を引く音。さっきも聞こえていたはずのそれは、皆が同時に行動したことで、やけに大きなものとなって、高い天井を持つ図書館に乱反射した。人の出入りが激しくなったせいだろう、こもった水気の匂いが断続的に流れ込んでくる。昼過ぎから降りだした雨は、この時間になっても止む気配を見せなかった。

(雷蔵の仕事が終わるまで、あと30分か)

急に人が列をなしだしたカウンターの向こうには図書委員である雷蔵が対応していた。その彼の頭上、見やすいように正面に壁に掲げられた時計を見て時刻を確かめ、終わって帰ってからのプランを頭の中で確認すると(今日はDVDを見る約束をしていた)私は雷蔵から視線を戻した。忙しそうに、けれども笑顔で対応する彼が私の視線に気づくことはないだろうから。

(ったく、ギリギリに借りるなよ)

下校の音楽が鳴りだしてから焦るように並び出す奴らを見るたびに、そう思う。前に一度だけ雷蔵にそのことを言ったら「別に先に帰ってもいいんだよ」と諭されてしまった。だから、愚痴はもちろん心の中だけで留めておくけれど。一分でも一秒でも早く、雷蔵とゆっくり喋りたいけれど、一般生徒の貸し出しを終え簡単な点検と見守りをして……となれば、まだ、もう少し時間がいる。そう分かっていても、やっぱりイライラする自分を止めることができなかった。

(はぁ、早く当番が終わればいいのに)

溜息を逃がすために横を向けば、窓ガラスにうっすらと映る自分は、眉間にしっかりと断層を作っていた。まだ昼の名残が重ねられていて完全な闇とは違うけれど、暗い外を縁取る窓には図書室の蛍光灯が白く滲んでいる。雷蔵と帰る頃になっても、雨は降り続いているだろう。

(念のため折りたたみ持ってきて正解だったけどな、)

雨は嫌いだった。濡れるし、湿気で髪が貼りつくし、歩きにくい。なにより、傘の分だけ雷蔵と遠くなって雨音のせいで雷蔵の声が聞こえにくくなる。考えているだけで辟易し、ざわめきがゆっくりと薄れていく館内に耳を澄ませながら、私は顔を6人がけのテーブルに突っ伏せた。

***

「三郎」

ふわりと撫でる柔らかい声に、ふ、と暗闇が拡散した。は、っと顔を上げる。いつの間にか冷え込んだ空気が辺りに沈み込んでいて、一瞬、身ぶるいが背中から遡上した。一瞬、自分がどこにいるのか分からずに「え?」と辺りを思わず見回してしまった。すると「あんなに短時間なのに、寝てたの?」と楽しそうに口角を上げた。あれほどさざめいていた図書館は、引き潮のごとく、今は誰もいない。私と、雷蔵以外は。けれど、今、気になるのはそのことじゃない。雷蔵の言葉に「短時間って、」と食らいつけば、彼は唇の綻びを大きくさせた。

「だって下校の音楽が鳴った後まで起きてただろ。こっち見てたし」
「気づいてたのか?」
「気づくさ。あれだけ恨めしそうに見られたら」
「だって、閉館時間なのに駆け込みで借りる奴があまりにも多いからさ」
「まぁ、ね。けど、そんなに嫌なら、先に帰ればよかったのに」

どうせしないんだろうけど、と含むように彼は笑うと、それから「もうちょっとで終わりだから」と私越しに窓の辺りに視線を走らせ、テーブルを離れた。さっきよりも暗みが増した外に、窓ガラスの自分たちがはっきりと浮かんでいた。施錠とか忘れものとかの見回りの途中だったのだろう。雷蔵が仕事を終えたらすぐに帰ることができるよう、飽きて散乱させていた筆記用具を片づけ始める。と、二つ向こうの島のテーブルに行ったところで、雷蔵の足がぴたりと止まった。

「あ、ねぇ、三郎。消しゴム持ってる?」
「持ってるけど」
「貸してくれる?」

言われるままに薄い鞄にしまってしまったペンケースを取り出し、雷蔵の所へと持っていく。視線だけで「どうしたんだ?」と問えば彼は「落書き」と憤慨したようにテーブルを指さした。肩で溜息をし、「最近、ひどいんだよね」と零す。その指先を見やればと、たしかに、ちょっとひどかった。単にページのメモ書きとか計算の走り書きといったレベルではなく、筆談がされていたのだ。そういえば珍しく騒いでいたグループがいたなぁ、と思いだした。すぐに注意されたから、どんな奴だったかあんまり記憶に残ってないけれど。

(あー、ここに書いて会話してたから静かだったのか)

思わず私は納得してしまったけれど、図書委員の雷蔵としては許しがたいことなのだろう。消しゴムを手渡せば、盛大な溜息が落とされる。

「はぁ、本とかに落書きしてないといいけどなぁ」

その可能性は捨てきれないけれど、この膨大な蔵書の中から奴らが読んでいたものを特定するのは難しい。雷蔵もそのことは分かっているのだろうけど、ぶつぶつと文句は止まらなかった。同時に、怒りに任せて消しゴムを掛けていく。そのテーブルが綺麗になると、ついでに、というばかりに次のテーブルへと彼の体が移った。

(どうせ「帰ろう」と言っても無駄なんだろうな)

落書き消しに精を出す後ろ姿に、諦めの境地に立たされる。こうなってしまえば、最後まで付き合うしかない、と雷蔵の気が済むまで付き合うことを覚悟したその時、不意に彼の手が、止まった。

「雷蔵?」

どうしたのか、とひょいと覗きこむ。うっすらと書かれていたものは、随分と懐かしいものだった。小学校の時とかに、よく黒板や机に落書きされていた。誰かをからかうような大きなものから、こっそりとおまじないをかけるみたいな小さなものまで。ハートの傘の下に、二人の名前。

「これ、何ていったっけ? 雷蔵、覚えてる?」
「確か、相合傘じゃなかった?」
「あぁ! そう、それ」

続けて、久しぶりに見たなぁ、と呟くと雷蔵は「確かに。大きくなってからは、あまり見ないよね」と私と同じ感想を漏らした。

「これって、おまじないか何かだったか?」
「多分。一緒に傘に入れますように、って感じ?」

何となく見過ごしてきたその記号にそんな意味があるとは知らず、「そうなのか? 初めて聞いた」と驚くと、不意に雷蔵は頬を赤らめた。僅かに視線を落とし、それから小さな声で「えっと、今、僕が考えたんだけどさ」と告げる。それから、熱を抑えるかのように顔の前でパタパタと手を仰ぐと、彼は焦ったように口を開いた。

「あ、けどさ、これ途中だよね。名前がないもの」

とんとん、と指で叩かれた部分は、確かに空白になっている。誰かが遊びで書いて、途中でやめてしまったのだろうか。それとも、誰かを思ってこっそりと書きかけてやめてしまったのだろうか。それを知る術はない。これで名前でも書いてあれば推測できて面白いんだが、と残念に思っていると、消しゴムの影がそこに伸びた。

「消しちゃってもいいよね?」
「いいと思うけど。ってか、何で躊躇うんだ? 他の落書きは問答無用で消してたのに」
「だってさ、なんか、こういうの消し辛い」

雷蔵の気持ちが分かるような気がした。もし本気で誰かが書こうとした痕跡だったとしたら、そこに込められている気持ちまで消してしまうような気がするのだろう。

(それは分かるんだけどさ)

消そうか消さまいか迷う彼の指先に、いつまで経っても帰れないような気がした。窓を走り落ちる雨粒はだんだんと多くなり、まるで流星群のように留まることを知らない。ちらりと見えた時計は、想定していた時刻よりも随分遅くなってしまった。

(このままだとDVD、3本見れないかもな。……あ、そうだ)

手にしていたペンケースからシャーペンを一本取り出し、書いてあった途中の相合傘の空白に名前を加える。もちろん、私と雷蔵の。すぐさま「ちょっと、三郎っ!」と声が飛んできて、消しゴムによってあっという間に名前が消される。読みが当たって作戦が成功したような気持ちと残念な気持ちとが入り混じる。けど、「何なのさ、急に」とぼやく雷蔵が、耳の辺りまで朱に染まっていて可愛かったから、それでよしとしようと思って。雷蔵から受け取った消しゴムをペンケースに投げ込み、鞄に仕舞うと代わりに折りたたみ傘を取り出して、彼へと差しだす。

「雨も酷くなってきたしさ、そろそろ帰ろう。相合傘でさ」





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