竹久々

普段ならば気にならない土虫の声が今夜はやけに響いた。耳鳴りのようなそれは、一度意識してしまえば、なかなか切り離すことができなかった。音程が高低するわけでもなく音色が変わるわけでもない。速さも律動も同じ。精神統一のように自分を閉じてしまわなくても単調な音なんてすぐに慣れの中に消えてしまうのに、今晩に限って、心が乱れてしまって、ちっとも蚊帳の外にすることができない。

「はぁ」

ため息が夜を曇らせる。動かない闇がべっとりと自分に貼りついている。
まだ梅雨時でもないのに、やけに密度の濃い空気に喉の粘膜が絡み取られて気持ち悪い。じとり、とした感覚を追い出す様に、俺はもう一度だけ嘆息をこぼし、寝返りを打った。

「熱い……」

背中に貼り付いていた髪が散り散りになり、生まれた隙間から篭った熱が抜け出ていく。これで少しは涼しくなるだろうか、と安穏するも束の間。すぐさま布団に面した部分から新たな熱が溜っていく。寝苦しい。そう、この時期にしては早すぎるほど蒸し暑く、寝苦しい夜だった。

(けど、)

うだってしまいそうな頭には、けれども、と反に転ずる語が居座っていた。

(けど、寝れないのは、こんなにも熱いのは、天候のせいだけじゃない)

明日も実技があるのだ、と必死に目を瞑り暗闇を用意したけれど、なかなか眠りは落ちてこない。熱が充満していく頭は熱く、けれども、くっきりと冴えていて。また目を開ける。ぼんやりと闇が覆う世界で、ふと、柱が目についた。さっきとは別物だ、と分かっていたが、自然と思い返しては頬がますます熱くなる。

「馬鹿ハチ」

つい、この熱の原因となった主の名に八つ当ってしまった。と、耳に「んー」と小さな寝言が届いた。同室の勘右衛門だ。慌てて、そちらを忍び見たけれど、相変わらず規則正しく背中が動いているだけだった。安堵の息を漏らし、再び、寝返りを打つ。横に預けた体を崩し、今度は普通に仰向けになった。左手を眼前に伸ばす。そこに重なる、ハチの手の残像。

(本当に大きさかったな、ハチの手)

***

「よっしゃ、越えた」

ぐっ、と拳を握りしめたハチは柱がの前で今にも躍りだしそうなほど喜んでいた。学期始めに保健室でするのとは別に、俺たちは端午の節句には背を比べるのを習慣としていた。ハチの部屋の柱には、俺たちの成長の証が刻まれている。五つの線が。

「本当だハチの方が高いな」

身長と同じ高さのところに苦無で傷をつけていた勘右衛門が確かめるように柱を撫でた。それを聞いてハチが嬉しそうに「だろ、だろっ!」とその言葉を繰り返す。少し離れたところにいた雷蔵と三郎が同時に柱へと近づき、顔を寄せた。じっくりと検分するかのように、しばらく、眺めている。

「本当だ。けど、僕らみたいに、二人ともそんなに変わらないけどね」

雷蔵が漏らした感想の通り、俺とハチの線の隙間は小指の幅くらいでしかない。覗きこんでみて、ようやく、差があるのが分かる程度だった。今までは俺が高かったとはいえ、そんなに目線の差を感じたことがなかったから、ハチに抜かされたと言われても、あまり感慨は湧かなかった。それを見透かしたかのように三郎がからかう。

「まぁ、私と雷蔵は差がなくてよかったが、ハチの場合はもっと欲しかった、ってのが本音じゃないのか」
「うるせぇなぁ」
「事実だろ」

指摘に噛みついたハチだけれど口で三郎に叶うはずもなく。うっ、と言葉を詰まらせて黙り込んだ。しばらく、いじけるように屈んでいたが、やがてかばりと立ち上がると「来年には絶対ぇ一番になってやる」と宣言した。三郎が「どうだか」と茶化すと、むっ、としたハチは手を突きだした。

「俺、手がでかいから、マジで背ぇ高くなるって」

そして、その大きさを証明するかのために、掴かみ、包み込んだ。ことはあろうか、俺の左手を。

***

それから、ハチの熱が離れていかない。自分の膚の上に、ふわり、と温かなものが覆っているような、そんな感じがする。もうとっくの前にハチの手は離れているのに、まるで、まだハチに手を握られているみたいだ。

(やっぱり、ちょっと違うなぁ)

目の前に掲げた掌は闇の中で輪郭が溶けてしまっていた。そのぼんやりと浮かび上がる自分の手とに記憶にある彼の手を重ねる。切り傷や噛み痕が残るざらついた手は、けれども暖かくて、そして本人が主張した通り、俺よりもずっと大きかった。

(……あの手が俺を守ってくれてる)

守られるだけの存在にはなりたくない、そう思っていることに変わりはない。依存するだけの一方的な関係など、まっぴらごめんだ。俺が必要としているように、ハチにも必要にされたい、と。ただ、思っていたよりもずっと大きなハチの掌に、安心感を覚えたのだ。ハチがいれば、強くなれる、と。

「ハチ」

彼の熱を、俺の手を、空いている右手で包み込んだ。





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