竹にょ鉢 (現代・アンケ)

5万打アンケ「竹にょ鉢。バーテン竹谷とビッチなにょ鉢。シリアス」より。



「このヤリマン」

頬に熱が走った。甲高い残響が店内に残される。その女の目尻は引きつって赤く弧を描いている。尖らした目は殺せるものなら射殺してやりたい、といった気迫に満ちていた。ぼんやりとその様子を観察している間も、「泥棒猫。男なんて誰でもいいんでしょ」と捲し立てる口は止まらず。叩かれた痛みよりも衝撃よりも「よく動く口だなぁ」っと妙に感心しながら真っ赤なルージュに飾られた蠢くそれを、私は眺めていた。

「何、黙ってんのよ。何とか言いなさいよ」

魔女みたいに長い爪が、目の前のグラスを掴んだ。グラスの中の、晴れた春の朝のようなあけぼの色が、とぷん、と揺れた。オークの木目がきれいなテーブルに、カクテルの飛沫が零れるところまで、スローモーションで見えた。

(あ、かけられる)

その次にくるであろう冷たさを思い浮かべながら、私は目を閉じた。

「お客様、これ以上は他のお客様の迷惑になりますので」

繰り返し繰り返し想像していた冷たさの代わりに、バリトンの声が降ってきた。メンズ独特の香水だろうか、心臓をざわつかせる香りが一瞬漂った。そっと、目を開けると、骨ばった手首の関節が、私を庇うようにして、そこにあった。

「ハチ……」

***

繁華街のやや奥まった所に構えられていた小さな店。マスターはカフェと言っていたが、普通のカフェとは趣きが違った。音楽をかけて、お酒も出して、食べ物も出して、バーというわけでもなく、クラブというわけでもない。「マスターが、好きなものを好きなだけ出してる店」という彼の説明が一番しっくりきた。そこでバイトをしているハチは中学の時の同級生だった。月に数回、立ち寄る店でハチと再開したのは二カ月ぐらい前のことだった。マスターとハチは親戚なのだという。

「ほら」

彼から手渡された、まっさらなおしぼりを頬に当てる。ひんやりとしたそれが、じわじわと頬から放たれる熱を吸い取っていくのが分った。その時になって、結構な力で叩かれたことに気付いた。明日、腫れてしまうだろうか。そう考えると厄介な気がして、溜息を一つ。すると、呆れたような面持ちのハチが当てつけのように、俺以上に大きな吐息を零した。なんとなく釈然としない気持ちのまま、一応、お礼を言っておく。

「……さんきゅ」
「別に、助けたわけじゃねぇよ。作ったものを投げられるのが嫌だっただけだし」

視線を逸らしてそう告げるハチは、私の知っているハチじゃなかった。アルバムをめくるみだいに記憶を繰れば、彼はいつも馬鹿みたいに笑っていた。閉じた瞼で撮られた過去は、まるで太陽みたいに、ぴかぴか、と眩しいばかりの笑顔。闇なんて存在を全く知らない、そんな真っすぐさを持ち合わせた男。それが、私の中の『竹谷八左ヱ門』だった。

(けど、今は違う)

あの頃もがっしりとしていた体つきは、今も変わらない。けれど、何かが削ぎ落とされたような、何かを削ぎ落としたような体。精悍さが増した顔つきは鋭くて、研ぎ澄まされたナイフみたいな、丈夫なはずなのに折れてしまいそうな危うさが彼にはあった。

(会わなかった数年の間に何があったというのか)

そんな疑問を口にすることすら許されない厳しさが、そこにあった。

***

「マスター、ジンバック」
「お前、未成年だろ」

カウンターに移り、暗がりに溶け込むように立っているマスターに声をかける。マスターが酒瓶に手を伸ばそうとしたとき、カウンターの端から低い声が邪魔をした。むっとして、声の主を睨みつけたけど、私の視線を受け流した彼はグラス磨きに徹していた。

「違うって。もう20歳になりましたー」
「誕生日、まだだろうが」
「チッ、覚えてたか」

舌打ちすれば、彼は一度だけ視線をこちらに向け、そして、やっぱり何も言わなかった。

(昔なら、絶対、何か言って来たんだがな)

つまらないやつ、と心の中で零すに留めたのは、一応、さっき、庇ってもらったからだ。(それくらいの常識はある) ハチがバイトに入っていては、呑むことができないだろう、と会計を済まそうと傍らの鞄を探り財布を取り出すことにする。それぞれの輪郭が溶けだし合うような暗がりで、なかなか、目当てのものが出てこない。まさか中身をカウンターに広げるわけにもいかず、手を突っ込んでかき回していると、

「三郎」

カウンターを滑らすように音もなくグラスが置かれた。灯りを落とした暗い店内に、その金色はやけに艶やかに浮かび上がる。氷の隙間を縫って、ビーズのような炭酸がキラキラと上る。グラスの端に引っ掛けれたライムの緑が黄金をより一層引き立てた。

「え? 何これ? ジンバック?」
「飲んでみれば分かる」

机に残された足の細いグラスは、ぱきり、と折れてしまいそうな脆さを感じさせる。マドラーだと思っていたそれは、黒いストローらしい。淡々として答えを教えてくれない彼にしぶしぶながら従うことにする。吸い上げれば細やかな刺激が舌で弾け、咽喉に痛みが走り--------最後に、かすかな甘みが胸に満ちた。

「ジンジャーエール?」
「あぁ」

銜えたところに自分のグロスが移って、ラメが淡くピンク色に光っている。

「で、今度は?」

スイングの曲が、ゆったりと店内を満たしていく。薄暗い照明の下、私以外の客はおらず、カウンターのスツールからいつの間にか、マスターは消えていた。再びグラス磨きに戻った彼の言葉は、主語はないけれど、言いたいことはすぐにピンときた。

「28歳。会社員」
「妻子持ちじゃねーだろうな」
「今回は違う」

ストローを銜えて振り回しながら答える。そんな私に対して、彼は露骨に眉をしかめた。その原因が、「行儀」のことなのか、「倫理」のことなのかは、分からないけど。

「今回は、って……お前もたいがいにしとけよな。そのうち刺されるぞ」
「だって……心臓が破裂するようなキスをしたいんだから仕方ない」

この年にしては経験が豊富と言われるが、相手のことをちっとも覚えていない。かさついたキスに記憶を割くスペースはない。ただただ、怠惰な感情しか残されない。過去の男は、人数と言うか、数字上のものだけだった。


「何だよそれ?」
「言葉のまんま。心臓が破裂するようなキスをしたいだけだ」
「はぁ?」
「キスすれば分かるっていうだろ。相性とか」
「初めて聞いたし」
「なら、今から、キスしようか?」

ハチはグラスを拭っていた手を止め「お前、ジンジャーエールで酔っ払うなよ」と突っ込みを入れた。腹が立って「酔っ払ってなんかないし」と唇を尖らせれば、ハチは笑った。--------昔と同じ、太陽みたいな笑顔で。

「っ」

心臓が破裂したかと思った。顔に孕む熱に、つい、視線を背ければ、ハチは「どうしたんだ?」と追求してきた。

「何でもない」

***

その日以来、前以上に足繁く店に通うようになったのも、自然なことだった。月に数回が週に数回に変わり、入り浸るようになって、マスターともすっかり仲良くなっていった。ますます居心地がよくなり、つい、帰り道に店に寄るのが習慣となっていた。その日もハチが出してくれたジンジャーエールを片手にクラッカーディップをつまんでいると、不意にマスターが話しかけてきた。

「ハチのやつ、元気そうだな」

ちらり、と視線を投げれば、少し先に別の常連と話し込んでいるハチの姿があった。他の客に迷惑をかけないように、と声は絞っているようだったけど、揺れる空気からもハチが笑っているのが分かる。

「あいつはいつも元気ですよ」
「まぁ、ちょっとは吹っ切れたか?」

たくわえた口髭を弄りながらマスターが顔をハチの方に向ける。マスターの言葉の意味が分からず視線だけで問うたけど、こちらの意向を察したというよりも、呟きの続きのように自己完結にも似た小さな声音で呟いた。

「カノジョさん亡くして、一年経つしな」
「え?」
「知らなかったのか?」

私が頷くと、マスターは憚るようにもう一度だけハチのほうに顔を向け、そうして目を伏せた。耳を塞ぎたい、知りたくない。けれども、私は指一つ動かすことができなかった。カウンターテーブルに落ちた、グラスから伸びる淡い金色の影を見つめること以外には、何もできなかった。

「事故で、な。結婚も考えてた相手だったからさ。しばらく廃人に近くて、見てられなかったな。……だから社会復帰のリハビリに『店でバイトしないか』って」
「……そう、ですか」
「あぁ。だからさ、三郎、あいつを元気づけてやってくれ」

影に浮かぶ、いくつかの光の珠。ゆらゆらと揺れて、弾け、そうして消えていく気泡。ハチの、厳しい横顔がそこに重なった。爆発してしまった心臓のかけらが、ちくりちくり、と私を突きさす。マスターの言葉に「はい」と答えた私はうまく笑えているだろうか?

***

いつの間にかグラスの中の氷は溶け消えていた。水っぽくなった表面では行き場を失った気泡が弾け、宙へと身を投げている。

「もう一杯、作り直してやるよ」

いつの間にかハチが目の前に来ていた。グラスに伸びたハチの手を、あの骨ばった手首を、自分の手ではしりっ、と掴む。怪訝そうにな目が私を見ていた。

「なぁ、ハチ。キス、しようか」

寄せては返す波のように、愛しさと哀しさが止め処なくあふれ出す。今、彼と唇を重ねたら、きっと、ピリオドを打つ。心地よい友人関係に。その先は、どうなるかなんて予想もつかなかった。けど、「さよなら」をしなければ、新しい関係は始まらない。ハチは泣いてるのか笑ってるのか、よく分からない顔つきで、俺と向かい合っていた。

「心臓が破裂するようなキスを?」
「あぁ。心臓が破裂するようなキスをしよう」

どちらからともなく手を伸ばし--------私たちはジンジャーエールみたいな刺激的な口づけを、心臓が破裂するようなキスをした。



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アンケートご協力していただいて、そして、素敵な萌えを本当に本当にありがとうございました^▽^これからもよろしくお願いします!!






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