鉢雷(Homeより数年後)

※Homeより数年後

「こら、駄目だろ」

色褪せたカーテンにじゃれつく愛犬に注意を与える。その言葉に動きを止めたのを見届けて、僕は目を段ボール箱へと戻した。最初は床いっぱいに箱の山が占めていたけれど、さすがに自分でも多すぎるだろう、と再度出したら大変なことになってしまった。終わる気がしないけど、助けを呼ぶのは気が引けた。

(あんなに大見栄切っちゃったしなぁ)

僕は片付けが苦手だった。捨てるかどうするかで延々と迷ってしまうから。それを見越したかのように三郎が「手伝いに来てやるよ」と電話口で笑った。けど、引越しの片づけだけに半日かけて車で駆けつけてもらうのは、ちょっと申し訳ないから「大丈夫」と断ったのだ。訝しげに「本当に?」と言われれば「一人でできるし」と意地を張るように言ってしまったけど-----------。

(やっぱり、お願いしとけばよかった)

明日、業者が荷物を引き取りに来るのに、終わる気がしない。それでも、泣き言を言う間に一つ片付く、とひたすら手を動かし続ける。迷いだすとキリがないから、必要かどうか考えるのは止めた。とりあえず、ゴミ袋にどんどんと詰め込んでいくことにする。

「これは、棄てるっと…」

足元のゴミ袋に入れようとして、フローリングの傷が目に入った。入った当初はなかったような気がして、思わずため息を落としてしまっていた。人が住めば、そこで暮らした期間の分だけ汚れたり傷がつくのだろうけど、最初のピカピカとした印象が強いだけに、やっぱりショックだ。それと同時に感じる。随分と長く住んでいたのだ、と。それだけ、彼と離れていたのだ、と。

仕事に就いたと同時にさっそく遠くの職場に飛ばされ、僕はあの家を出た。皆で暮らしていた、あの家を。できることなら離れたくなかった。けれど、新人であれば誰もが通る道。僕は初めて知った。帰宅した時に誰もいない部屋の暗さを、「おかえり」という声のない冷たさを。そして、愛しい人が傍にいない切なさを。

***

「あとは、キッチンだけか」

最後まで使う場所だろうから、と後回しにしていたそこに取りかかる。インスタント食品や乾物なんかが押しこんである戸棚を開けた。いつ買ったのか分からないものもたくさん入っているそこ。時間がないから、賞味期限を確かめず、手当たり次第廃棄にしていると、ふ、とあるものが視界に飛び込んできた。

「あ、これ……」

コーヒー豆。その袋に、手を伸ばす。彼の声が脳裏に柔らかに醸された。

***

「雷蔵」

真夜中の呼び鈴は、ちょうど、彼と離れ離れになって二か月が経った頃だった。平日はもちろん、土日も仕事が忙しく、くたくたになった体を引きずってアパートまでなんとか戻る毎日だった。とてもじゃないけど、三郎に会いに行く暇なんてなかった。それどころか、疲れ切った体では彼からのメールを返信することさえ億劫になってしまっていた。声を聞きたい、という気持ちが溢れそうなほどあった。けれど、日常が離れてしまったせいか、仕事一辺の毎日のせいか、何を話せばいいのか分からなかった。一緒にいた頃に、何を話していたのか忘れてしまっていて、いざ携帯の発信ボタンを押すとなると、指が固まってしまう。今日こそ連絡を取ろう、今日こそ----そうやってしているうちに日がどんどんと経っていき、ズルズルと連絡できなくなっていた。

「三郎!?」

突然の訪問に、一瞬、幻覚を見てるんじゃないかと思った。会いたくて会いたくて、あまりにも強く思っていたから。けれど、「久しぶり」と目の前で柔らかく笑う彼は、夢でも幻でもなく、確かに三郎だった。驚きのあまりに、僕はぽかんと口を開けたまま「どうしたのさ?」と尋ねれば、三郎の眼差しがいたずらっ子のように閃いた。

「いや、君の淹れたコーヒーが急に飲みたくて」
「コーヒーが飲みたくなって、それで来たの?」
「そう」
「わざわざ、ここまで?」
「あぁ」
「半日もかかるのに?」
「あぁ。雷蔵の淹れたコーヒーが飲みたくてね」

あまりに馬鹿馬鹿しい理由で、その馬鹿馬鹿しさが愛おしくて。僕は三郎の胸に飛び込んだ。

「淹れてくれないかい?」
「いいけど、豆、ないよ」
「なら、買い物に行こう」

***

ワン ワン

「っと、早く片付けないと」

不意に響いた愛犬の鳴き声に引き戻され、僕はあの時に買いに行った思い出のコーヒー豆の袋をテーブルに避けた。それから近くにあったレトルトパックを、慌ててゴミ袋に詰め込んだ。今日中に片付けないと。その思いから必死に体を動かす。食品が片付いて、什器類に手を付けることにする。

「これは……どうしよう?」

思わず呟いた独り言に愛犬が首を傾げる。その様子の可笑しさに、思わず笑みが零れて。それから、手にした物に視線を戻す。コーヒーの残滓にくすみ、僅かに口が欠けてしまっている所もあるマグカップ。三郎とおそろいの、それ。

***

「何、これ?」

深夜に開いている店じゃたかが知れていて、結局、その晩はコーヒーの豆を手に入れることができなかった。インスタントやドリップじゃない、挽きたてのがいい、という三郎の我儘に付き合ってやることにしたのは、遠路はるばる三郎が僕に会いに来てくれたからだ。そのまま僕のアパートに泊まり、翌日僕は仕事に行っている間に三郎は近くのショッピングモールに出掛けたらしい。

「マグカップ」
「それは見ればわかるって。僕が聞きたいのは……」
「聞きたいのは?」
「……やっぱり、いいや。もう」
「何で二つもあるか、って?」

帰宅した僕を待ちうけていたのはマグカップが、二つ。色違いのそれが、テーブルの上に並べられていて。思わずつまった僕に、彼は意地悪な笑みを浮かべていた。

***

ワンワン

鳴き声に、また現実に引き戻される。愛犬が僕を見ていて。どうするの? って顔をしていた。

「コーヒーの痕が残っているし、少し口が欠けているけど、まだ使えるからね」

悪戯っぽく見つめる円らな瞳に、言い訳をして、マグカップをさっきのコーヒー豆の隣に並べる。割れてしまわないように包もうと新聞紙を取りに行こうとした時、錆び付いた音が、雑多に物が溢れている部屋に響いた。呼び鈴だった。

(誰だろう、こんな時間に)

片付けに熱中していつ気づかなかったけど、いつさか短針が頂に近くなっている。はいはい、と物が散乱した床から何とか足の踏み場を探して玄関に近づく。ドアを開ければ、そこに三郎が立っていた。世界で一番愛おしい笑みを浮かべて。

「何だか、雷蔵の淹れたコーヒーが急に飲みたくなってな」







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