鉢久々(現代・シリアス)

「あれ、三郎って眼鏡だったか?」

いつもよりも随分と掠れた声が耳を浚った。てっきり、寝ているとばかり思っていたから、それが彼の発した声だと気付くのにワンテンポ遅れた。泥に引きずり込まれそうなほど重たい眼球をなんとか動かせば、元は白かったのだろうが、酷くくすんだシーツに包まれている兵助が気だるげにこちらを見ていた。人一人入るには狭く、けれども手を伸ばせば十分に触れられる距離。ベッドに腰かけた自分と彼との距離は、昔と変わらないような気がした。

「……時々、な」
「ふーん」

そっちから聞いたくせに、心底どうでもいいような声音で彼は相槌を打った。どうでもいいような、じゃない、か。どうでもいい、だ。彼ひとりで完結された世界に私が入る隙間があるのかどうか、未だに分からない。あの頃、閨を共にすればするほど感じたのは、独り、ということだった。

「今、何時?」

さっとすり替わった質問は、さっき私のことを尋ねたのと同じトーンだった。兵助にとって私のことも時間を聞くことも、全部、同じなんだろう。特別意味のない、ただ、何気ない会話の一部。前と変わらねぇな、と心の中が苦くなるのを感じつつも、それを表に出すことなく答える。

「6時」
「夜の?」
「んなわけねぇだろ。何時間寝てたつもりだよ」
「暗いからさ」
「雨だからな」

両隣をコンクリートに囲まれたこの部屋は、あいにく細々とした雨音が届かない。けれども、兵助は「あぁ、雨か」と納得したかのように呟いたのは、辺りに漂っている気配のせいかもしれない。完全に落ちた闇とは違う、薄ぼんやりとした暗がりが溜息のように部屋に満ちていた。

「目、前から悪かったっけ」

また唐突に話題が戻ったことに驚きが湧き立ち、それは波状となって笑いに変わった。抑えようにも、笑いに打ち震える筋肉に、くつくつと喉が鳴ってしまう。彼からすれば突然笑い出したということなのだろう、「何、笑ってんだよ」と低い声を上げた兵助は憮然とした面持ちだった。まだ噴出しそうな面白さをなんとか噛み殺し、「いや、何でもない」と返せば、まだ納得のいかない顔つきを彼はしていた。けれど、それ以上、追求するつもりはないようで。上半身を軽く起こした兵助は、筋肉が薄く付いたしなやかな腕を私の方に伸ばしてきた。

「初めて、見た気がする」
「そうか。……そうだな」

よく考えれば、雨の日の運転や夜半に読書をする時に眼鏡を掛けだしたのは、兵助と別れてからだった。その事実は口にするのは気が乗らず、とりあえず肯定だけで済まそうとする。けれど、彼の指先は僅かに膚を掠め、けれども温もりを感知する前に眼鏡のフレームへと移動した。どうやら、眼鏡を外そうとしているらしい。兵助の意図するところは全く分からなかったが、兵助されるがままに流される。レンズが眼前からずれた途端、覆っていた薄暗さが一段と増した。少しだけぼやけた視界で兵助がわが意を得たり、といったように一人頷いていた。不思議に思い、尋ねた。「何?」と。

「やっぱり、眼鏡がないほうがいい」
「似合わないか?」

わざとらしく溜息を零しながら兵助を伺えば、彼は至極真面目な表情のまま「いや」と首を横に振った。

「……けど、俺の知らない三郎みたいで、嫌だ」

冗談にしてはたちが悪く、素ならば凶暴な兵助の言葉に、斬られたのや撃ち抜かれたのとは違う、衝撃のない、密やかな痛みが俺を飲み込んだ。偶然、だったのだ。兵助と再び道が重なろうなどと、一度たりとも思ったことはなかった。綺麗な別れ方ではなかったかもしれないが、けれども、もう思い出すこともせず、浮かび上がったとしても懐かしく思えるほどの存在にはなっていた。そんな兵助と再会するなんて。しかも、こんな異国の地で。

「……実際、知らないだろ」
「え?」
「お前と別れてからの、私のこと」

今のことを知らないのは、お互い様なのかもしれない。さっき兵助が言った「嫌だ」という言葉が耳にこびり付いて離れなかった。眼鏡一つで違和を覚えた彼が表した、その独占欲。そんなものを彼が表に出すことなんて、あの頃には、全然なかったのだから。

(時が兵助を変えたのだろうか、それとも『誰か』が兵助を変えたのだろうか)

その答えは後で確かめればいい、と思った。もしくは、確かめなくてもいい、と。とりあえず、今することは一つだけだ。眼鏡を外したためにあやふやな輪郭をしていうる兵助との距離を縮めるために、身を乗り出した。ぎっ、とベッドが鳴いた。





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