竹久々(現代)

「って」

口の中に溜まる血を、唾といっしょに吐き出す。背骨が軋むように痛んで、立ち上がることも、ままならない。さっきまで喧騒していた世界は、静かに雨に萎れていて、白と黒と灰色の斑模様だった。

「あー」

何もかもが面倒で、俺は建物の壁に背中を預け、そのまま目を閉じた。睫毛に感じる雨はリズムを変えながら、頬の傷を冷やしていく。染み入ってくる冷たさが、心地よかった。

「はち、はちっ」

雨音に紛れ込んで、しっとりとした声音が路地裏に響いた。一瞬、自分が呼ばれているのかなんて錯覚して、馬鹿な考えだと、振り切る。目を開けることさえ億劫な気分で、その声の主が去るのを、ただただ待っていると、

「大丈夫か?」

そぼ降る雨に混じって、頭上から温かな声が降り注いだ。

***

「どうぞ」

渡されたタオルは、真っ白で、ほっこりしていて、太陽の匂いがした。うざいと手を払うよりも早く、手を引かれて雨の当たらない建物の中に連れてこられた。通用口から通されたのでどこか分からなかったけれど、辺りの様子から喫茶店だと察しをつける。

ぼんやりと店内を見回す。壁に染み付いたコーヒーの匂い。しゅんしゅんと蒸気が零れる音。その靄みたいな、柔らかなフィルターが掛かったような世界。

「はい」
「え?」

目の前に置かれたマグカップには、柔らかい色合いがなみなみと注がれていた。白い湯気と一緒に立ち昇ってくる優しい匂いが、ゆったりとした気持ちにさせる。すすめられたカップの上に張った白い皮膜が、たぷん、と揺れた。なかなか手に付けない俺を見て、「あ、もしかしてミルク苦手だった?」と彼は眉を顰めた。

「え、や、……俺、お金、持ってないんで」
「遠慮しなくていいよ。困った時はお互い様だから」

ふわり、とした笑顔は、目の前にあるホットミルクのようだった。

にゃぁ

か細い声と共に、足元を温もりが通り抜けていく。ハシバミ色の円らな眼差しを向け、子猫が彼にすり寄っていた。彼の髪によく似た夜の闇よりもずっと艶のある黒い毛は、湿り気にいくつかの束ができている。それをほぐす様に、彼の長い指が子猫の額で円弧を描く。

「お前もホットミルクな……本当は飲食店だから猫を連れ込んじゃダメだなんだろうけど」

前半はその猫に、後半は俺に向けての言葉だろう。そう言いながら彼は紺碧色の深めの皿を、そっと床に置いた。子猫はピンク色の舌を出し、ぴちゃぴちゃ、と音を立てながらミルクを舐めて出した。彼はその様子を柔らかい笑みを湛えて見つめていた。そっとカップに手を伸ばし、ホットミルクに口を付ける。冬の日の布団の中にいるような、優しい温かさが広がった。

「手、出して」

いつの間にかスタッフルームに消えたと思ったら、彼の手には救急箱が下げられていた。俺が断るよりも先に、彼は強引に主導権を握ると、消毒液を零したガーゼで拭い始めた。しゅわしゅわした泡に滲む痛み。一瞬、歪めそうになった唇を噛み締める。払いのけるのは簡単だった。けど、その指が温かかくて。あまりにも心地よくて------。

***

「いくら」
「え?」
「これの代金」

ホットミルク、って言葉が気恥ずかしくて指で示せば、ちゃんと伝わったようで、「あぁ、いいよ」と彼は笑った。それから「困ったときは、お互い様だから」と続ける。

「いや、気になるし」
「本当にいいって。俺が勝手に淹れただけだし」

けど、これで俺が引きさがったら、もう、これっきりになるような気がして。「次、来た時に払うから」と粘る俺にようやく彼は俺に値段を告げた。それを心に刻みつけていると、ぎゅ、っと足首が閉まる感覚に足元を見降ろせば、黒っぽい毛玉が俺のスニーカーに絡みついていた。じゃれているのか、子猫は靴紐を引っ張っているようで。

「こら、はち、駄目だろ」

彼の言葉に思わず自分が怒られているような気がして、ぎょっとした。

「なぁ」
「ん?」
「こいつの名前、はちって言うのか?」
「あぁ。この辺の野良で八番目だから。それが?」

きょとん、とした表情の彼に、何となく言えなかった。自分の名前を。







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