竹久々(パロ)


※ゴンドリエーレ竹谷×貿易商ぼっちゃん兵助


「'O sole mio  sta 'nfronte a te!」

歌が聞こえてきた。いや、歌、と言っていいのか分からなかった。まるで酔っぱらいが陽気になって声を張り上げているかのようだった。けど、これが歌なんだ、と気づくことができるのは、彼が口にしている歌詞はこの街に棲んでいれば誰でも知っている程に有名なものだったからだ。音程もリズムも何かもが無茶苦茶な歌が、少しずつ近づいてくる。

(あぁ。ハチ、だ)

その歌声の持ち主が誰なのか一発で分かった俺は、読んでいた本を机に投げ棄てると、そっと窓の傍に寄った。カーテンを少しだけ持ち上げるようにして捲る。開け放っていた窓から、湿った風が入り込んだ。だんだんと大きくなって迫ってくるメロディと共に、水音がそこに混じり出す。一歩遅れて、ぎぃ、と櫂を漕ぐ軋みもそこに加わった。石造の街に反響し、混じり、ぶつかり合い、消えていく。

(相変わらずだなぁ)

こんな所から聞こえるはずもないのだけれど、こっそりと笑いを噛みしめながら、俺はカーテンの隙間から俺の家の前を流れる運河を見下ろした。この窓から少しだけ離れたところに、波止場がある。俺の親父が造ったものだ。ハチのゴンドラは吸い込まれるようにそこに一直線に向かっていた。焦げた際とは反対側の空に、ゴンドラのごとき流線を摸した月。そのうちに完全に闇に沈む込むであろう世界には、ぽつり、ぽつり、と蜂蜜のような色合いの外套が灯りだしていた。仄暗さに覆われていてゴンドリエーレの顔をはっきりとは顔を見ることはできない。ましてや表情なんて。けれど、きっと楽しそうに声を張り上げているのだろう。日が明るい内に何度か見た彼はいつだって笑っていた。その笑顔を今の影に置き換える。

「おーい、ハチー。その下手くそな歌、どうにかしろ」

ふ、と、からかいを含んだ声が波止場の方から飛んできた。続いて、げらげらとした野太い笑いも聞こえてくる。すぐさま「うるせぇ、三郎」とやり返す声が響く。この三郎ってやつは口が悪いんだろう「お前の歌を聞いていると耳が腐りそうだ」と皮肉が。汚い言葉は好きじゃない。けど、こいつのおかげで、俺はあのゴンドリエーレの名をハチと知ることができた、そう思うと、ちょっと複雑な気持ちになる。

(……まぁ、そんなこと、俺が考えていたって、関係ないんだろうけどな)

ハチの歌声と水音と艪の漕ぎ音。三重奏のそれが、近づいてきて------------そして俺の前を通り過ぎていく。ハチは俺に気づかない。当然だ。向こうはこっちのことを何も知らないのだから。俺だって、そう変わらない。ハチについて、ほとんど知らないのだから。彼について知っているのは、ハチという名前と、すぐ傍の河岸で荷物を受け取っては別の場所に運んでいることと、それから、いつも気持ちよさそうに、倖せそうに歌を歌っていることだけだった。

(どんなやつなんだろう、な)

詳しいことは分からない。けど、この水路がどこに繋がっているのか知らない俺にとって、ハチは、今、彼が歌っている歌そのものだった。-------------'O sole mio 俺の太陽。そのことを伝える術さえ、金糸雀の俺は持っていなかった。櫂が刻んだ水面がゆらゆらと揺れ、ハチへと続く標を残していた。歌が、聞こえる。俺はそっと目を瞑った。






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