竹久々(現代)

(あー、マジ、しんど)

顔面を突き刺す熱が足りない。ぬるめを好む兵助が入った後だということを忘れて、そのままシャワーの下に立ったのだが、生ぬるく貼り付く水流が何か嫌で、俺は手探りでパネルを叩いた。ぴっ。ぴっ。ぴっ。水音の向こうで指の動きよりも遅れて機械音が聞こえる。半目だったから何度かは分からねぇが、とにかく水圧が弱くなったと思ったら、次の瞬間には大量の熱湯が俺の体に降り注いだ。疲れが一気に流れ落ちていく感じがする。

(ホント、最悪の日だったな)

別に、特別何か嫌なことがあったって訳じゃねぇ。朝、一本電車に乗り遅れたとか、書類上で表記ミスをしたとか、昼に食べようと思っていた飯が売り切れだったとか、取引先からデータがなかなか送られてこなかったとか、苦手な先輩に嫌味を言われたとか、上司が退社時刻直前になって仕事をねじ込んできたとか、おかげでカップラが夕飯になったとか、何とか終えてようやく帰れると思ったら雨が降り出していた、とか。一つ一つは些細なことで。働き出した当初ならいちいち凹んでたかもしれねぇが、今じゃ、そんなの時々あることだって知ってる。

(けどなぁ、こう、どうにもならねぇ日ってのは、あるんだな)

今日は、その些細なことがいくつもいくつも重なってしまった。さすがに落ち込むほどはいかねぇけど、ひどく疲れた。唯一の救いは、ずるずると鉛のように重たい足を引きずって戻ってきたアパートの自室に糖蜜色の優しい光が灯っていたことだろうか。ソファの上で、居眠りをしつつも、兵助が俺の帰りを待っていてくれたのだから。

(それだけで、十分だよなぁ)

***

ソファの上で体を丸めて甘い寝息を零している兵助は、無防備な笑みを唇の端に浮かべていて、普段よりもずっと幼く見える。俺が帰ってくるまで起きてようとして、最低限までボリュームを絞った音楽を聞きながら本を読んでいたのだろう。雨音に溶けて消えていくほどの小さいメロディは、兵助が好んで聞く曲だった。掠れた低音が優しい。栞代わりになって挟まれていた兵助の指をそっと本から外したけれど、目を覚ます気配はなかった。

「兵助、兵助」

もうちょっと見てたい気持ちもあったけれど、いくら部屋に暖房が掛かっているとはいえ、このままソファで眠りこけたら風邪を引いてしまう。軽く揺さぶったけれど、唇が軽く緩んだだけで、起きる様子は一向になかった。肩の辺りを掴んで、さっきよりも大きく前後させる。

「兵助、起きろ」
「ん……はち?」

うっすらと開いた瞼の中は、まだ夢うつつなのか、瞳に映り込む俺と焦点が合ってないようだった。そのまま降ろされていく睫に、慌てて「兵助」と肩を起こすように腕を差し込む。目に落ちた翳が、ぱ、っと弾け、「あれ、ハチ?」とさっきよりもはっきりした声音が俺に届いた。

「もしかして、俺、寝てた?」
「おー」

俺の腕に掛かっていた兵助の体重が消えた。自分で上体を支えて起き上がった兵助の面持ちは緩んでいて、まだ眠たそうだ。眠気を追い払うかのように数回、目を瞬かせた兵助に「ってか、待っててくれたんだな。悪かったな、連絡入れなくて」と侘びを入れた。兵助は「や、別に、俺が待ってたかっただけだから」と俺が謝ったことに対して少しだけ不思議そうな面持ちを浮かべた。それも、すぐ消えて。

「おかえり」

その一言が、ふわり、と俺の中に温かなものを灯す。ひどく倖せな気持ちのまま「ただいま」と、くしゃり、と兵助の髪を撫でれば、ふい、と顔を逸らされてしまった。照れ隠しなんだろう。耳まで赤くなってる。兵助らしくて、こっそり笑っていると、腹にパンチを食らった。

「夕飯……は食べてきただろうから、風呂、さっさと入ってこい。明日も仕事だろ」

まだ笑っていると、ぶん、と兵助の拳が空を切る。寸でのところで避けて「おぅ、風呂行ってくるな。先、寝てろよ。朝早いんだから」と俺はベッドに放り出してあった自分のスェットを取りに行った。朝、脱いだままの形で置かれているそれを引ったくる。そのまま風呂場に向かって衣服を脱ごうとして、替えのパンツを持ってくるのを忘れていたことに気づいた。

(はぁ、今日はもう最後までこういう日かよ)

せっかく兵助とのやりとりで上がった気持ちが、少しだけ沈む。まぁ、あとは寝るだけだ。寝てしまえば忘れてしまうだろう、と鏡に映るどんよりとした自分に言い聞かせ、取りに戻る。と、兵助がまだソファのところにいることに気づいた。ほんの、数分しか経っていないのに、すでに、舟を漕ぎ出していて。

「兵助、起きろー。ベッドで寝ろよな」

うつらうつらしている兵助に、そう声を掛けたのだが、返ってきたのは「んー」っていう、そのまま本格的な眠りに落ちていきそうな曖昧な返事だった。何度か揺さぶってみたが、さっきみたいに目が開くこともねぇ。

「起きねぇと、お姫様だっこでベッドまで連れてくぞ」

相当お姫様抱っこが嫌だったんだろう。俺の台詞が終わらないうちに「起きる」と、ぱっと目が見開いた。言わないまま実行すればよかったと思う反面、勝手にやったら兵助も手足をばたつかせて落としてしまったかもなぁ、と反応の早さに苦笑する。

「起きる。起きた」
「分かったって。ほら、ベッドに行った行った」

俺は兵助がコンポのスイッチを切って、ベッドの中に潜り込んだのを確認してから、風呂場に足を向けた。

***

(ふぅ)

生乾きだと兵助まで濡れて風邪引いちまう、と思って洗面台でドライアーを掛けたのだが、時間が時間なだけに風量を弱くしたら随分と時間が掛かってしまった。マットの湿気を保った足が、ぺたり、と床に貼り付く。帰ってきたときよりかは、だいぶ楽になった。それでも、気だるさが抜けることはねぇ。さっさと俺も寝てしまおう、と俺の体はベッドに一直線だった。

「ん……」

淡いルームライトの中、ベッドに潜りやすいよう、そっと上掛けをめくれば、猫みたいに体を丸めた兵助が小さく声を漏らした。起こしてしまったか、と一瞬、焦ったが、すぐに深い寝息が聞こえてきて、安堵する。丸めた兵助の体の中心には、白っぽいものがある。小さいけれど、抱き枕だった。一緒に棲むようになってから兵助が最初に持ち込んできたやつの、一つ。これがないと寝れないのだという。笑うなよ、と念を押されて告白を聞いたのだが、つい、噴き出してしまって。それで兵助がつむじを曲げたのを今でも覚えている。

(相変わらずだなぁ)

思わず、笑みが零れた。何年経っても変わらない光景。--------------------これまでも、そして、これからも。そう思うと、ひどく温かな気持ちになる。この名前に感情を付けることができるのだとしたら、それを、愛しい、というのかもしれねぇ。兵助を起こさないように、そっとベッドに入った。すぐ傍に、兵助の温もり。

(これだけ熟睡していたら、大丈夫だろ)

俺は、そっと肩回りから右腕を差し込んで兵助の背中を抱き寄せた。ころん、と体が俺の方に向く。ん、と柔らかな吐息を漏らしただけで、兵助は目を覚ますことはなかった。すやすやと寝息を立てている兵助の上から左腕を掛ける。右手の指が自然と兵助の髪を掬う。撫でる。もつれた部分を解く。また、指で掬う。

(まぁ、俺も兵助のこと笑えないよな)

俺にとって、兵助は抱き枕のような存在なのだから。こうやって、兵助を抱きしめるだけで、俺は安眠できるのだから。兵助の髪を撫でている内に、とろとろと湯煎にかけられているようなそんな温かさが俺を包み込んできて、そのまま眠りに誘われた。

「おやすみ、ハチ」

ゆっくりと降りてきた優しい闇ので、ゆらゆらと温かな声が響いたような気がした。





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