鉢雷(現代)

錆び付いた階段を上がりかければ、耳鳴りがしそうな程の冷たい風を真正面に受け、自然と首が縮こまる。ポケットに手を突っ込んだのは寒さから逃げるためと、それから部屋の鍵を探すため。自動車のと一緒に収めてあるキーケースに触れれば、冷たさに指先が引っ付いた。たった数百メートルだというのに。

(うー。寒ぃなぁ)

季節はもう春だよ、なんて雷蔵は笑っていたけれど、その息吹すら感じることはねぇ。まぁ、暦上だから仕方ねぇのかもしれないけど。-------------まぁ、寒いのは嫌いだが、けど、今年は春が来るのを素直に喜べないな、と足音一つしか響いていない階段で独りごちる。闇に絡んだ白はくっきりとしていて、その白に安堵する自分がいた。

(このアパートとも、あと、二ヶ月、か)

正確に言えば二ヶ月もない。階段を昇りきれば、別事を考えていても自然とポケットから鍵を取り出している。いつの間にか染みついているこの行動でさえも、四年前にはなかったはずで。当たり前になっている、って今更気づいては、妙に感傷的になる。

(って、まぁ、考えても仕方ねぇことなんだろうけどな)

ふっきるように、私は大きく息を吐き出した。広がった白の先にあるのは自分の部屋。鍵穴にキーを突っ込もうとして、ふ、と気が付いた。中に人の気配。誰か、だなんて考えなくてもすぐに分かる。合い鍵を渡している人物は一人しかいないのだから。

「ただいま」
「あ、三郎。おかえり」

ドアを開けた瞬間、ふわり、と温かなものが私を包み込んだ。玄関開けてすぐのところ、台所で夕食を作っていたのだろう、コンロの前に立っていた雷蔵は、あたかも私が帰ってくるのを予想していたかのように、驚くことなく、満面の笑みをこちらに向けていた。

「ちょうど、ご飯できたところだから、一緒に食べよう」

***

「あ、ありがとう」

ダウンジャケットをコート掛けに吊し、ついでに、ベッドに放り出されていた雷蔵のマフラーをハンガーに掛ける。寝るときに布団の中に巻き込まれて、明日の朝、大騒ぎで探す雷蔵が目に見えるからだ。大雑把の雷蔵の持ち物を管理しているのは、私と言っても過言じゃない。ちょうど、ほこほこと湯気が立てた鍋を持ってきたところだった雷蔵に礼を言われて「や、いいけど、放っておくとなくなるぞ」と答えつつ、座ってこたつの中に足を突っ込む。

「だよねー。春からものがいっぱいなくなりそう」

さらり、と何気なく言われた言葉に、じん、と痺れた。冷たいところから温かいところに足を入れたからじゃない。もっと、ずっと私の内側にある場所が、じんじんと疼く。----------------春からは別々の場所だ、だなんて、未だに信じれない。初任の場所はとてもじゃないが、ここから通うことなどできなくて。会社の近くのアパートを決めてきたのは、先週のことだった。ずっと先のことと思っているけれど、壁のカレンダーを一つ破れば、そこには引っ越しの日の○が付いている。

「さてと、いただきますしよっか。今日は、なんと大奮発して海鮮鍋! 海老団子も入ってるよ」

じゃーん、なんて擬音語で登場を告げる雷蔵は楽しそうで。------------------感傷に囚われているのは私だけなのだろうか、離れているのが淋しいと思っているのは私だけなんだろうか、そう考えると途方もなく淋しさに昏んで、じんじんとした痛みが酷くなっていく。

「ねぇ、聞いてる? 海老団子だよ! ほら、食べようよ」

鍋敷きに降ろし、掴んでいたタオルから持ち手を放すと雷蔵は私の隣に腰を下ろした。ほわり、とした湯気のような笑みを向けられれば、そんな感傷的になっていたことなど知られたくなくて「あぁ、海老団子な」と声にすることで、頭を切り換える。

「でも、三郎、早かったね。もうちょっと遅くなるかと思ってた」
「雷蔵こそ、今日、バイトじゃなかったっけ?」

まだ、くつくつと音がする鍋から玉じゃくしを使って、雷蔵がお皿に取り分けてくれた。基本的に家事面は分担制なのだが、この取り分けだけは雷蔵がすることが多い。というのも、単に、私が好き嫌いが多いからだ。例えば、今日の鍋だと、まず春菊が食べられない。雷蔵が「栄養を考えないと駄目だよ」と何度言われても、嫌いなものを避けて皿に盛る私に怒って以来、一緒に食べるときに取り分けるのは雷蔵の役目になってるのだ。

「うん。それが、相手の子、インフルエンザになったみたいで」
「そりゃ、なんていうか、あれだな」

雷蔵のバイトがなくなって、こうやって一緒にいられるのは嬉しいのだが、それを喜んだら雷蔵に「不謹慎だよ」と咎められる気がして何となく誤魔化すように言葉を濁した。けど、私の本音に雷蔵は気づいているんだろう、小さく笑うと「今週いっぱい、お休みだって」と告げ、鮮やかな色合いの人参を私の皿に入れてくれた。

「じゃぁ、いただきます、しようか」
「あぁ」

ぱちり、と手を合わせれば、「いただきます」と重なる声が、愛しい。

「三郎、明日のバイトは?」
「明日は入ってる。けど、明後日は休みだから、どっか出かけるか?」
「うん。そうしようよ」

どこいこうね、と行き先を巡らしつつ、雷蔵は料理に手を付けていて。熱かったのか、はふはふ、としている雷蔵に笑いつつ、私も春菊を皿の隅にどけて箸を海老団子に伸ばす。口にすれば、じわり、とうまみが広がった。空腹感が一気にきて、食べるスピードがどんどんと速くなっていく。負けじ劣らじの食欲を見せる雷蔵に「おいしいな」と感想を告げれば、彼はその倖せそうな笑みを蕩けさせた。

「鍋は大雑把な僕でもできるからね」
「それは否定しないが」

ひどいなぁ、と冗談交じりで零す雷蔵のお皿は、一杯目が空になっていた。ほとんどが汁で、わずかに具がほぐれてしまったものが浮いているだけで。さっそくおかわりをしようと、玉じゃくしに手を伸ばしている雷蔵の目差しが、私の方に向けられる。正確に言えば、私の皿に、だ。

「あ、三郎、春菊残してる」

食べ始めの時に皿の端に春菊を避けて寄せておいたのを、雷蔵は知っていたようだ。まだ三分の一は具材が残っていたけれど、しっかりと見透かされてしまっていた。雷蔵の目差しが「食べないの?」と訴えかけてきているのが分かる。けど、どうしても春菊は駄目だった。あの独特の臭いや苦みが苦手だ。

(何でわざわざ鍋に入れるのか、理解できねぇ)

はぁ、と溜息を零しているが、雷蔵が許してくれそうな雰囲気はなかった。

「駄目だよ、三郎。食べないと」
「や、」
「春菊は体にいいんだって。風邪とかの予防になるらしいし」
「春菊食べるくらいなら、風邪引いた方がマシだ」

私は本気でそう言ったのだが、雷蔵は若干呆れたように「誰が看病するのさ」と首を傾げた。もちろん、とばかりに「雷蔵がしてくれるだろ?」と疑問と言うよりは確認の声音で問いかける。と、それまで、明るい顔つきだった雷蔵に、ふ、と翳りが帯びた。

「……この冬はね。でも次の冬は看病できないだろ?」

突きつけられた言葉を、雷蔵が言いたいことを己の中で噛みしめる。すげぇ苦かった。-----------------けれど、ちょっとだけ嬉しかった。雷蔵も、同じ風に想っていているんだ、って。離れることが淋しい、って感じているんだ、そう知って。

「ちょ、どうしたの、三郎」

思わず雷蔵を引き寄せて、抱きしめていた。雷蔵の温もりが自分に溶け込んでいく。

「三年」
「え?」
「三年経ったら、こっちに帰ってくるから。また一緒に棲もうな」

+++
2月8日ってことで、不破さん記念日に!




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