鉢雷(現代)

晴れてレポートと試験から解放され、与えられた自由というのはかくも素晴らしいものだ、と怠惰な夜を満喫した結果、目を覚ましたのは、いつもなら研究室にある古いテレビで(顔も知らない先輩の卒業プレゼントだそうだ。画面の枠外に流れる地デジが未対応であるテロップももう見慣れてしまった)黒いサングラスを掛けた大御所司会の顔をカップ麺を食べながら見ている時間だった。

「おはよ、三郎」

こんだけ寝ているとは思ってもおらず、携帯のディスプレイ画面を二度見していると、のんびりとした挨拶が私を包み込んだ。雷蔵、だ。体を起こせば、私が寝ているマットレスに腰をもたれ掛けさせるようにしている雷蔵が視界にしっかりと収まった。セーターからすらりと伸びる彼の左手には、ワインを煮詰めた色合いの本が収まっていた。ちらりと見えたタイトルは日本語じゃない。試験もレポートも終わっているから趣味で読んでるのだろう。

「ん、はよ」

寝るときに来ていた彼のスウェットは、脱いだときの形のままで床に落ちていていた。ぐちゃぐちゃのそれは、雷蔵らしい。けど、休みであってもちゃんと服に着替えている雷蔵は、もっと雷蔵らしい。それでも、「ずいぶん長く寝ていたねぇ」と笑う雷蔵の髪は横にぴょこりと一房跳ねていて。それを見て「雷蔵もさっき起きたんだろ」とかまを掛けてみれば、「どうして分かったのさ」と雷蔵は目も口も丸くさせた。

「だって、髪、寝癖のまま」

体を前のめりにして、飛び出している髪を指でつつけば、上下にぴょこぴょこと揺れた。ふわふわとさわり心地のよい柔らかい毛質の雷蔵は、朝起きると、いつも不思議な方向に跳ねてしまっている。放っておけば直るよ、なんて大雑把な性格の雷蔵は、大学の授業がある日はともかく、でかける予定のない休日なんかはそのままにしておくことが多い。

(あれだけ跳ねてても、雷蔵の言葉通り、二、三時間もすれば落ち着くんだものな)

跳ねていることを指摘されたのが恥ずかしかったのか、それとも、触られたことが恥ずかしかったのか、どっちかは分からないけれど、雷蔵の頬は上気に染まっている。照れくささを押し隠すためだろうか、蔵は髪を空いていた手で撫でつけ、話題を変えてきた。

「今日、バイトは?」
「休み。さすがに一日くらいゆっくりしても罰当たらねーだろ」

時給がいいってだけで大学入学してすぐに始めた居酒屋チェーン店のバイト先で、働いて二年。私は学生なのにいつの間にか新人スタッフの教育係的な役割になってしまった。本当は早く辞めたいのだが、店長に泣きつかれて、ずるずると続けているうちに、抜け出せなくなってしまった。さすがに毎日とまではいかなくとも、週の半分以上はバイトが入っている。それはテスト期間中だろうとなんだろうと関係なくて。絶対、春休み明けに新入生らがバイトに入ってきたら辞めてやる、と決意したところだった。もちろん、理由はそれだけじゃねぇ。

(一番あれなのは、雷蔵とゆっくりできないことだよなぁ)

一緒に棲んでいるから、どこかの時間で顔を合わせることができているけれど、どうしてもバタバタしてしまう。私がバイトから帰ってくるのは深夜だし、雷蔵は専科の関係でか朝一で授業が入っていることが多い。私たちのことを知っているヤツらからは、お前きもい、と言われるのを承知で言う。もしこれでバラバラに棲んでいたら、私は確実に雷蔵不足になるだろう。

「そっか、よかったね」
「雷蔵は?」
「僕も今日ないよ」

その言葉を聞いて、これからどうする、と目だけで雷蔵に問えば「別にごろごろするのもいいんじゃない? 三郎、あんまり寝てないでしょ」という答えが返ってきた。私に遠慮して、というよりも、心からそう思ってくれているのは、目を見れば分かる。真っ直ぐに案じる目差しが私に向けられていた。もちろん、このままマットレスの上でぐだぐだと過ごしたい気持ちがないわけじゃねぇ。足下で誘ってくる羽毛布団。その中に体を突っ込んだら、きっと一分も絶たねぇうちに夢の中、ってやつだろう。

(けど、雷蔵とどっかに出かけてぇ、ってのもあるんだよな)

お互い、レポートや試験で忙しくて、年明け以来、二人でどこかに出かけたって記憶がなかった。一緒に棲んでいるのだから、毎日、顔を合わせているから、全然そんな気はしないのだが、指折り数えて考えてみても、最後に二人で出掛けたのは、三連休のセールだ。そう思うと、どうにかして出かけたい、ってのが心情で。

「や、そんな疲れてないって」
「そう? でも、あんまり天気も良くなさそうだし」

雷蔵が投げた視線の先、窓の外には確かにのっぺりとした雲が押し詰められている。雨が降り出しそうな濃さはなく、どちらかといえば冷凍庫にある氷に近い色合いをしている。そのせいかだ、余計に寒々しく見えた。電線のたるみが上下左右に大きく揺れているのを見ると、風も冷たいのだろう。

(確かにあんまり出かける気にはなれねぇな……)

足下で待ちかまえている布団の中に、ずりずりと退行していく体は、ふ、と部屋に掛けられたカレンダーで止まった。やたらと主張してくる週末に付けられた○は、雷蔵がゼミのメンバーで旅行に出かける予定のものだった。追いコンも兼ねるらしく、話を聞いたときにあまり文句を言えなかったのだが、つまりは、しばらく雷蔵と会えないわけで。やっぱり、何が何でも今日中に出かけよう、と突き動かされた。

(……問題は、どう雷蔵を動かすか、だな)

私も頑固だが、雷蔵も相当の頑固者だ。私を休ませる、と決めれば、その気持ちを突き崩すのはすごく難しい。山を動かすには何とやら、の世界だ。どうしたものか、と考えている内に、雷蔵の目は再び開かれた本へと吸い込まれていく。どうやら私が布団に潜り込み直すだろう、と判断したらしい。だが、そんな雷蔵の姿を見て、ますます、今日は絶対に出かけてやる、と決意を固める。

(ただ「出かけよう」って言っても、雷蔵は「休んだ方がいいよ」って言うんだろうし)

どうしたら一緒に出かけることができるだろうか、と悩ます頭とかけ離れた場所で、唐突に、へしゃげた音が響いた。そういや昨日の夜から食ってねぇもんな、と思考は当然中断される。一度目が覚めた腹の虫は煩い。しきりと食べ物を求めるそれに、起きるんなら飯を食わねぇとなぁ、と面倒臭さを感じていて、ふ、と思いついた。外に出かける方法に。

(冷蔵庫の中、確か、空だったよな)

食事は基本的に交代制だが厳密な決まりはない。私は夜はバイトの賄いで済ますことも多いが、それ以外の食事はそれぞれの授業やバイトの忙しさで、互いに察し合って作っている。買い物はできるだけ一緒に行きたいところなのだが、どうしてもスーパーが開いている時間にバイトの上がれる雷蔵の方が多くなってしまう(細かい調味料を揃えるのは私だけれど)。雷蔵は冷凍食品も嫌いじゃないみたいだが、私はどうも好きになれなくて。そのせいもあって、割と小まめに買い物に行ってくれる。(ありがたいことに雷蔵は「帰り道だから気にしないで」なんて言ってくれる)だいたいのところは、そんなリズムでうまくやっているのだが、どうしても試験中期間中は崩れてしまう。どうしても外で済ましたり、コンビニに頼ることも多い。雷蔵がその期間はバイトに行かないためにスーパーに寄れない、というのも大きいだろう。今回も同じで。昨日の夜中に喉が渇いて冷蔵庫の扉を開けたが、私を待っていたのは、ぶん、と唸るモーター音と淡い光だけだった。

(食料品の買い出しなら、さすがに雷蔵もノーとは言わないだろうな)

「なぁ、雷蔵。お昼どうする?」

前傾していた体が、びく、っと跳ねて、頁を捲ろうとしていた雷蔵の指先から本が滑り落ちそうになった。あ、と声を上げたのは私だろうか、はたまた雷蔵だろうか。とにかく、寸でのところで床に激突するのを免れた本を手に振り向いた雷蔵は「びっくりしたー。静かだからもうとっくに寝てたと思ってたよ」と、目を揺るがせた。それから改めて本を閉じて「もうこんな時間だもんね。…あでも冷蔵庫、何もないから買い物行かないとね」と捻るようにして体をこちらに向け、マットレスに腕を載せて支えるようにして、私を見上げた。

「っ」

その上目遣いに、ぱちん、と熱が弾けた。本をマットレスに置き去りにしたまま立ち上がろうとする雷蔵のセーターの袖を、ぐっ、と引っ張る。

「ちょ、三郎」

焦る雷蔵の声が、直接胸に響いた。バランスを崩して倒れ込んだ雷蔵をぎゅうと抱き締める。彼が着ているような、ふわふわした温かさが灯った。

「ちょ、どうしたの、三郎?ねぇ三郎ってば、放してよ。このままじゃ、買い物行けないって」
「や、こうやって雷蔵抱き締めるの久しぶりだな、って思って。やっぱり、今日はこうやってダラダラしようか」

そうだ。どこかに出かける以前に、こうやって雷蔵とゆっくりするのが久しぶりだったんだ、と触れた温もりに実感して、そう口にすれば、抜け出ようともがいていた雷蔵の手から力が抜け、肩の辺りに回される。私が「雷蔵を食べたい」なんて提案すれば、熱が帯びた文句を耳元で言われた。

「……バカ」






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -