竹久々(現代)
几帳面に整えられた爪が、ぐっとネクタイの結び目に押し込まれた。関節が一つ分だけ埋まった指が手前に引かれれば、ダークブルーのネクタイが胸元で小さく揺れる。締め付けから解放された喉からせり出す盛り上がりに色を覚えてしまう。
「何?」
は、っと間近で声が弾け意識が手前で結ばれる。さっきまで壁際にいたハチが、今は俺が座っているソファの前にいた。本当に不思議そうな面持ちを浮かべて見下ろしているハチと視線がかち合う。見惚れていた、と気付いて、慌てて目を伏せる。ちらり、と視界に入ったのは、部屋に入って来るなりハチが脱いでソファに掛けてあったスーツだ。それを通り越して見えた靴下はすっかりと擦り切れていて、親指の部分が薄くなっている。
(それだけ毎日歩きまわってるんだな……)
忙しいとは聞いていたが二週間ぶりに会ったハチは痩せたように思えた。玄関で顔を合わせた時、橙色した電灯の淡い光が頬に落としてできた翳がいつもより深く感じたのは気のせいじゃないだろう。
「忙しそうだな」
「あぁ、まぁな、すぐ上の先輩が七松先輩って言うんだけど、結構、無茶言うんだよ」
そう口にしたハチの声は言葉面とは裏腹に、張りが合って弾んでいるように聞こえる。楽しいんだろう。その証拠にその後に続いたのは「けど、やっただけ力も伸びるし、やりがいもあるからな」なんて言葉だった。
(何か、俺の知らないハチみたいだ……)
高校大学とハチの隣で歩んできたけれど、何となく適当なことが多くて。レポートだってテストだっていつも俺任せで、「まぁ、なんとかなるって」って笑ってて。そんな緩いな部分に腹が立ったことも一方的な喧嘩になったこともたくさんあって---------けど、そんなハチに逆に救われたこともそれ以上にあって。
(なのに)
たった二週間。その二週間会わなかっただけで、まるで知らない人みたいで。
「今日は泊っていけるのか?」
思わずシャツの袖を引いてしまっていた。くたくたになった布は柔らかく、どこかハチの体温を宿している気がする。ちょうど苦労しながら手首から時計を外そうとしていたハチの無骨な指が、止まった。大学を卒業した時に互いに交換したそれ。
「兵助?」
怪訝そうな声が降り注ぐ。きっとハチは分かってないのだろう。ハチがしている時計のベルトには、まだ、俺が使っていた穴が擦り切れて残っていた。俺のそれよりも一つ大きい穴にはまっている金具。--------1つ分。近くて、けれど、決して重ならない。その距離はまるで今の俺とハチとのようだ。
「……何でもない」
ぐ、っと詰まる咽喉から無理やり言葉を押しだし、摘んでいた服から指を離そうとした瞬間、
「会いたかった」
ぎゅ、っと、逆にハチに手首を掴まれた。そのまま、落ちてくる影。
「俺だって、兵助に会いたかったに決まってるだろ」
※絵茶で皆さんが素敵なスーツな竹久々を描いている最中に書いたものです。はれこさん、かのこさん、みかさん、なつめさんありがとうございました^▽^
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