竹久々(現代)

※9月オンリーの無配。博士の愛した数式パロの元ネタ。



「名前、何て言うんだ?」

さっき、というよりも、いつもと変わらない、決まりきった質問に「竹谷八左ヱ門」と答えた俺は、兵助に聞かれるより先回りして「ちなみに、はちざえもんの『はち』は数字の八な」と告げる。すると、それまで眠りの底に沈んでいたような泥炭とした色合いの目に不意に光が灯った。滔々と「八か。それはいいな。8という数字は……」と彼の口から流れ出すそれを、俺はもう何回も、いや、何十回も聞いている。

けれど、ちっとも内容は頭に入ってこず、覚えることもできなかった。なぜなら、本当に倖せそうに笑っている兵助に、見とれているから。

いつもは、それこそペンか何かで書かれたんじゃないかってくらいはっきりとした皺を眉間に刻み、唇もまた気難しそうに閉ざされている。けれど、数学を目の前にすると、とても穏やかで優しくて、そして何よりも幸福そうな表情を兵助は浮かべるのだ。

「で、ハチはどうしてここに来たんだ?」

 俺は何十回目となる説明を彼にする。大学の単位が危うかったために、ここで勉強して手伝ってこいと、教授に送られてきたことを。すると兵助は少し顔を曇らせて「申し訳ないんだが、教えてくれないか? 初めましてなのかどうか」と呟いた。俺は迷わず「初対面です」と嘘を吐いた。すると、ほっと胸を撫で下ろして「そうか。なら、よろしく。ハチ」と彼は告げると、こちらが「よろしく」を言う前に回転椅子をひっくり返してしまった。

九十分前と同じ光景だった。

これも、いつもと同じならば、きっと、今、兵助が書いているのは特徴と似顔絵付きのメモだろう。俺の場合は「8」が書きこまれているはずだ。忘れてしまうから、と彼がこの洋館に尋ねてくる人物(たとえば俺をここに放り込んだ教授なんか)に、もう一度名前を聞かなくてもいいように付箋紙に書いてパソコンの周りに貼っておいてある。びらびらと何重にも地層のように重なっているそこに、本来貼られているはずの俺の名前はない。兵助のあの倖せな笑みがみたくて、俺はこっそりメモを棄てて、初対面のふりを続けていた。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -