鉢雷(現代)

※シリアス


ふ、と目を覚ますと、隣にいたはずの三郎はいなかった。ぼんやりとした頭のまま辺りを見回せば、三郎はラグにいた。彼は膝を抱え、どこか遠い所を見ていた。真夜中の部屋に、テレビの冷たい薄明かりだけがあった。それが無声映画だったのか、単に音声を消していただけなのか。もう覚えていない。…ただ、その死に滑り落ちそうな冥い冷たさだけが、膚に残っている。

***

面白くてお薦め、と友人がレンタルしてきたのはモノクロの喜劇だった。主人公の髭男が変なことばかりしていて。そこに出てくる人物は皆、それを見ては笑っていた。------その主人公を除いては。

おもしろおかしくないのに、笑いを取ろうと滑稽に振る舞っていた。その笑顔に飾られた、その瞼奥は泣いていたのに。愚かだ、と思った。


「あー面白かったな」
「…うん」
「雷蔵? どうしたんだ?」
「何でも、ない」

僕は笑えなかった。--------三郎がいなくなった時、僕もあんな顔してたんだろうか。

***

三郎が姿を消した少し前の日、彼は古めかしい詩集を読んでいた。

「三郎」
「仕事、終わった?」

三郎は決して委員会とは言わなかった。僕が自主的に図書館の整理整頓をしていることを知ってるからだろう。微笑みながら、彼は読んでいた本に栞を挟んで閉じた。

「うん」
「じゃあ、帰るぞ」

放課後、彼は教室の窓際で、いつも本を読んでいた。帰宅部だというのに、三郎はいつも僕を待っていた。彼が拒むから結局、駅までしか一緒にいられないってのに、いつも。

「ちょっと、待って」
「何か、古そうだね」

これしまうから、と手にした本の艶やかな装丁は色褪せていて。横から見える紙色は、時代を刻んでいた。『落葉』そう表されていた。

「海潮音だ」
「あぁ、『秋の日の…』なんだっけ?」
「ヴィオロンのため息…」

滔々と諳んじられる、彼の言葉。けれど、語り聞かす流れがふと途切れた。

「なあ、」

長い睫毛の向こうに隠された、深みのある瞳に吸い寄せられる。夕陽に透けた彼の髪が、しなやかに揺れ動く。しん、とした教室に、二人っきり。

「キスしようか?」

三郎が口にした意味が分からなくて。

「え?」
「キスしたい」
「三郎?」

そんなこと言うなんて、思わなかった。嫌な気分になって、僕は無言のままいると、彼は「冗談だよ」と細く笑い、力任せに僕の手を掴んで、教室から出た。

(……ねぇ、三郎。あの時、キスをすれば、お前は消えなかったのかな?)

***

「雷蔵、怒ってる?」
「別に怒ってはないけど」
「本当に? あっ!」

大人っぽいのか、子どもっぽいのか。くるくる、万華鏡みたいに表情を変え見つめる先。足元一面に落ちた葉が、鮮やかな赤と黄色の錦を織っている。

「こういうのって、ついつい踏みたくなるよな」

カラカラカラ、と乾いた音。がざがさ、足元の落ち葉を蹴りながら、二人、小道を作る。だが、すぐに崩されては埋められていく。まるで未来の僕たちを暗示するかのように。

「三郎、」
「何だ?」

彼が振り向いた瞬間、風が奔った。風が舞って、鮮やかな葉が渦巻く。それに、三郎の姿が隠されて。--------見えなく、なる。

時々、感じてた。彼がいつか消えてしまうんじゃないかって。いつか、僕の前からいなくなってしまうんじゃないかって。それは、予感というよりも、確信に近くて。だから、

「どうした、雷蔵?」

気がつけば、ぎゅ、っと彼のコートの袖を握りしめていた。三郎の温もりを、この手に繋ぎとめるように。たとえ離れても、忘れないように。

「雷蔵?」
「何でもない」

怪訝そうな声に、僕は向き直って、ひんやりとした小さな小さな手を、包み込む。それが、小さな小さな僕にできる、精一杯のことだった。-------------この手を、離したくない。

***

真夜中の、ベル。雨音にかき消された、彼の声。飛び出して向かった先に、ずぶぬれになった三郎。突然、キスがため息のように零れ落ちてきた。

「三郎?」

それがちゃんと声になっていたかは、わからなかった。まるで夢の中で現実の物を掴むような曖昧な感覚。全ての音が、遠かった。水底に沈んでしまっていたかのようだった。

「雷蔵、愛してる」

その言葉が、その温度だけが、全てだった。

「三郎?」

切れそうなくらい痛い唇は動いた。けれど、現に声になったのだろうか?それとも、それも、幻だったのだろうか?それすらわからなくて、ただ、雨音に閉じられた世界で僕は濡れていた。

モノクロの世界に、遠ざかるの傘が跳ね返す街灯の光は鮮やかだった。現実味のない感覚に、足元が、ふわふわしていた。雨に踏みしだかれた落ち葉は、音もなく崩れた。水銀灯の淡い光は、雨に砕け散って冥く影を落とした。落ち葉は惨めそうに下にへばりついている。篠つく地面は俺の足を捕えた。魔法を掛けられたかのように、追いかけることすら、できなかった。-----無声映画のラストシーンを見ているようだった。

「愛してる」という言葉の意味が「さようなら」だと知らされたのは、翌日のことだった。

***

空から、鮮やかな色が舞い散る季節が、あれから、幾度巡ったのだろう。この季節になると、僕は彼のことを思い出す。胸の痛みとともに。

踏まれた落ち葉みたいに、何も言わず消えた彼のことを。あの頃と変わらない無力さを、噛み締めながら。それでも、僕は、捨てられずにいる。粉々に砕かれた祈りを。

-----三郎に、倖せがくるように。その祈りを。






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