竹久々(現代)
一瞬、まだ夜かと思った。朦朧とした景色はまるで深海の底にいるみたいに暗かったから。夜じゃない、と悟ったのは、耳元で激しく鳴り響いている携帯のせいだ。ちゃんとセットされていたアラームが朝を知らせていた。音源に向けて腕を振り下ろしても、あざ笑うみたいに俺の指をすり抜けてしまって。
「うー」
だんだんと強くなっていく音響に薄眼を開けて、今度は狙いを定めて携帯を叩けば、ようやくアラームは止まった。けれども、静けさなど来ることはなかった。代わりに耳を突いたのは、雷鳴と地面に叩きつけられている水音。どしゃぶりだなんて、ついてない。独り言なのかそれとも内心で留まったのか、それすら分からない、それくらい煩い雨音。どうせ差したって傘の隙間から吹き込む雨風のせいでずぶ濡れになるであろうスーツ、避けることができないであろう水たまりに突っ込んで後の手入れが面倒になるであろう革靴、べっとりと篭った臭いが充満する満員電車。想像するだけで、憂鬱になる。起きあがるのさえ面倒で。
「……このまま、休んでしまおうか」
なんて、もちろんそんなことできるはずもない。そうと分かっていても、ケットにうっすらと溜まった温もりに包まれてごろごろとしているとこのまま雨の世界に沈んでしまいたくなる。
(-------このまま、消えてしまいたくなる)
自分の代わりなんて、いくらだっているのに、じゃぁ、いざ代わりを求めればそれを許さない世界。睡眠時間削ってあっちこっち掛けずり回って頭を下げて、けれど、じゃぁ必要とされているのかといえば、自信を持って首を縦に振ることはできない。どうせ、組織という画を描くためのモザイクの一つみたいなものなのだから。
(理想と違う、なんてガキみたいに甘ったれたことを言う気はないけれど。けど、)
すり減らしているのは靴底だけじゃない。どんどんとやつれていく感情が怖い。そのうち、何も感じなくなるんじゃないか、って。深夜番組のお笑いを見ても笑えないし、携帯のウェブでニュースをチェックするときに悲惨な事件のタイトルを見てもふーんとしか思えない。自分の身に降りかかる理不尽なことですら「仕方ないか」と済ませてしまう。そんな自分が嫌で。けど、足掻くのにもちょっと疲れてしまった。
「あ、」
二度目のアラーム。今度こそ起きないと本気でまずい。仕事に遅れる。枕元で正確に朝を告げる携帯を放置して、のろのろと起き上がる。パジャマ代わりのよれよれのシャツを脱ぎ棄てる。こんな青だったろうか、と毛羽が目立ち出したそれに、なぜか溜息が洩れた。数年前にハチといったライブで買ったやつだった。最近、このバンドの曲を聞いていない。バンドが解散したからだ。CDとか元の音源はある。けれど通勤に揺られる間の相棒である携帯音楽プレイヤーに移す暇すらなかった。
(あの頃はよかったなぁ)
学生時代だなんて、ほんの少し前だというのに過去というページを割かなければいけないほど昔のことのように思えた。どちらかといえばネットで楽曲を落とすよりもCDを手にする方が多かったような気がする。ライブでインディーズの自主製作のを買うこともあったし、ハチとCD屋で色んなバンドを漁ったこともあった。二人で試聴しようとしてヘッドホンを壊したのはいい思い出だ。片方の耳からアーティストの音楽をもう片方からハチのハミングを聞く、そんな日々。ちょっと音程がずれてるんだけど、本当に楽しそうに口ずさんでいるものだから、指摘できなくて。でも、嫌じゃなかった。両耳から聞こえるメロディが、温かかったから。
(懐かしいな……)
時間がないと分かっていたけど、このまま、もう少しだけあの頃に浸っていたかった。寝起きに被っている布団みたいな、温かなあの頃に。それで、俺は埃の被ったコンポのスイッチを押して、CD屋のディスプレイみたいに陳列されるだけになっていたアルバムを押し込んだ。雨音を塗りつぶしていくメロディは懐かしさに濡れていた。
(どっちのバンドの楽曲が優れてるかなんてことで言い争った事もあったっけ)
あの頃はどうやって仲直りしようか散々頭を悩まして。よく考えればくだらないことばかりで喧嘩してたけど、喧嘩することができるのすら、今の俺からすれば羨ましかった。
「ふぇくしゅ」
あまりに肌寒くて自然と零れてしまったくしゃみに、我に返る。今日はもう長袖でもいいかもしれない。クローゼットの中からクリーニングから戻ってきたままビニル袋の中で夏を過ごしたそれを手にする。ぱりっとしたワイシャツに袖を通せば、一人のサラリーマンの出来上がりだ。と、大音量で鳴り響く携帯。三度目のアラームだろうか、とそのままにしておこうと洗面台に体を向けようとして、ふ、と聞こえてくるメロディが目覚ましのそれとは違うことに気が付いた。携帯がベッドで飛び跳ねて俺を急かす。早く出ろ、って。
「あ」
ディスプレイで点滅しているのはさっきまで想っていた人物の名前。『ハチ』の文字。慌ててボタンを押せば「もしもし」と右の耳からじんわりと伝わってくる温かな声。嬉しいんだけど、開口一番、出てきたのはその気持ちを伝えるものじゃなかった。
「何かあった?」
何の意味もない平日、しかもこんな早朝にハチから電話が掛ってくるなんて、ちょっと理由が思い当たらない。何か、しかも良くないことがあったんじゃないか、って思うのが自然だろう。これ以上憂鬱な気持ちに陥る覚悟で尋ねた。けど、
「いや、ちょっとニュースがあったもんだから」
そう告げる声はやたらと弾んでいて、さっきまでの鬱屈した気持ちが吹き飛ばされる。
「ニュース?」
「そう。あのさ、あのバンドが復活するんだよ」
「あのバンドって?」
「えっと、名前、何っつったっけ、えっと」
思い出せないのか、えっと、を繰り返すハチの言葉の傍で、コンポから流れてきた曲が変わった。俺たちがあの頃、一番、好きだったバンドのそれ。いつも聞いてた。二人で半分に分けたイアホン。右耳にハチの歌声、左耳にバンドライン。倖せな時間。ざ、っとよみがえる温かな音楽と、それから繋いだ温もり。
「ほら、この曲のさ」
耳を押さえつけた携帯から聞こえるハミングが、もう片方の、コンポから聞こえるメロディに重なった。まるであの頃みたいに。右側にハチの声、左側に音楽。両耳に響く、その温かさに、俺は泣きたくなった。紡がれる優しい歌。
「また一緒に聞こうな」
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