鉢雷(現代)

「不破少年」

メゾソプラノのやわらかい声は、歌うように僕の名前を呼んだ。昔の探偵だとか怪人二十面相のような奴らの、古めかしい言い回しをする人物には一人しか心当たりがない。

(わざと言う人物なんて、彼以外には考えられない)

けれど、重なり合う虫の音が充満する闇の中で、その声の主を見つけることができなくて。密と詰まった暗がりの中をきょろきょろと見回す僕に、「ここ、ここ。上だ」と彼の声が降ってきた。


「……三郎、何やってるのさ?」

声の方向を辿っていくと、屋根の上でくつろいでいる彼がいた。

「何って、月見」

彼が指差した方向は、けれども、その姿を見ることはできなかった。ちょうど隣家の屋根で隠れているのだろう、その辺りは仄明るくて、闇が透けて藍色に見える。月光の反対にいるせいか、彼の表情も影に覆われてはっきりとしない。ただ、その柔らかそうな髪が優しい金色に、キラキラと揺れていた。

「もう終わったじゃないか。今日、十五夜じゃないだろ?」
「そうだな」
「月見って、十三夜か十五夜のものかと思ってたけど」
「まー固いこと言わずに、不破少年も上がってこいよ。そっちに梯子があるから」

ぼんやりとした闇に隠された彼の面立ちは分からず(微笑んでいるのだろうか、違うのだろうか)夢を見ている気分になる。ずっと、見上げているせいか、じわじわと、首筋の中に熱が籠っていく。言葉を発するたびに喉に当たる息は、気道で詰まりそうになる。

「三郎、その呼び方やめてよ」
「そしたら、上がってきてくれるか?」

意外な切り返しに、驚いた。たぶん、僕にしては珍しく表情にまで、その驚愕が出ていたと思う。そうやって「不破少年」とからかうようにして呼ばれるのが嫌で、言われる度に何度もその呼び名を止めるように言った。けど、彼はワザとらしく「不破少年」と呼び続けていたから。

(それほどに、見せたい月夜、なのだろうか)

「……そうだなぁ」
「雷蔵、」

僕の名をの声は、僕の心臓を痺れさせた。何かを考えるのが億劫になって、すべてを、流れに任したくなって。僕は鞄をその場に置き、靴と靴下を脱ぎ(靴下は靴の中に入れて)、今にも折れてしまうんじゃないか、ってくらい、年季を感じさせる軋んだ音のする梯子に足をかけて、

---------------あぁ、イエロームーン。

「な、固いこと言わなくて良かっただろ」
「うん」

瓦に足裏をつけると、そこに潜んでいた冷たさが伝わってきた。ぺたり。ぺたり。踏みしめる度に、夜に染まっていく。ずっと先まで広がる夜の世界に、取り残されてしまった錯覚に陥って。彼が傍にいるのに、独りっきりのような、なんだか、妙な気分になる。

「ま、どうぞ」

とろり、と湯呑の中で透明な液体が弧を描いた。立ち上る芳醇な香りに、単なる水ではないことを察する。水面に浮かぶ月は、その形を崩されて、金色の湊がいくつもできた。

「僕、明日、朝早いんだけど」
「まーいいじゃないか。そんな固いこと言わなくたって」

それでも押し返すと、彼はそれ以上勧めることは諦めて、自分でその湯呑を呷った。一気飲みをして大丈夫だろうか、と彼を見つめる視界の端っこに、月が引っかかる。薄暗い影(あぁ、昔『海』と学んだ場所だ)は、ちっとも、ウサギが餅つきをしているようには見えなかった。そのことを三郎に告げると、「日本から見える月の海はウサギとは形が違うんだよ」と彼は笑みを見せた。どこか淋しさを滲ませて。

「そういえば、何で三郎がいるの?あ、そうか夏休み?」
「いや、夏休みは雷蔵達大学生だけだから」

空洞化の進むベッドタウン(というには、田舎だが)の中では、数少ない同年代のご近所さんというわけで。地元の大学に進学した僕とは違い、彼はこの町を出ていったけど、こうやって何かの機会に帰省すると、話をすることもあった。

「そうだよね。で、どうしたの?」
「去年からずっと帰れてなくてな。で、敬老の日だったから」
「そっか、おじいちゃん、元気?」
「まぁ、それなりにな。今日も、赤飯、食べてたし。けど……」
「けど?」
「だんだん、体が小さくなっていく気がして。…少し、淋しいな」

彼の言葉に自分の祖父のそれと重ねる。少しずつ、少しずつ、小さくなっていく背中は、月を思い起こさせる。幼い記憶に残る祖父の背中は、今日の月のようだった。最盛期とは違う、わずかに何かが欠けてしまった、十六夜の。けれど、どこかどっしりとしていて、あったかみがある、イエロームーン。そのイメージが強くて、僕のプレゼントを受け取った「ありがとう」と呟く、まるで枯れ木のように細く昼間の月のように頼りない背中に、一瞬、「これは、誰だろう?」と思えわずにはいられなかった。

「そうだね……満ちては欠けていくのが、生き物の姿なんだろうけど、淋しいね」
「満ちては欠けていく、か」
「うん。必ず終わりがあるものね」
「そうだな。……けどさ、雷蔵。だからこそ、その一生を懸命に生きれるんだろうな」

目の前のふくよかな月も、明日は、さらにその身が削られていくのだろう。ゆっくり、ゆっくり、けれど、確実に、終わりへと向かっていく。それは酷く哀しく、そして、酷く愛しいことのように思えた。

「いつかさ、来るだろ」
「え?」
「いつか終わりが、さ。その直前まで、こうやって雷蔵と月を見て、酒を酌み交わせたらいいな」




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