竹久々(現代)

※お豆腐の段のエプロン兵助さんに滾った結果

飲み物を取りに来たついでに、ふ、とガス台に放置されたままのフライパンが目に入った。一歩近づけば、じゅんと醤油の香ばしい匂いが漂ってる。焦げ目の残るそれは、すっかりとこびり付いてしまっているようだった。

「あ、しまった」

家を出てから購入したそれは、あまり高級なものではない。男の一人暮らしでそんなに飯を作る機会などあるとは思っていなかったのだ。学食かバイト先のまかないかコンビニか。適当にそろえたのは鍋とフライパンが一個ずつ。そんな状況だ。誰かと食事を共にするなんて想像もつかなかった。---------ハチと出会う前までは。

(水に漬けておくの忘れたなぁ)

俺よりもこのフライパンをよく使っている彼はよく気がつくのか、こまめに手入れをしてくれていて、使った後にはすぐに水につけていた。そうやって大切に大切に使っているからこそ、安物のフライパンでもこんなにも長持ちしているのだろう。ハチに言われて俺もいつもだったら水に漬けておくのだけれど、料理ができたと同時にハチが帰ってきたものだから、すっかりと忘れていた。

(今からでも漬けたら、少しはましだろうか)

俺は黒ずんだ焦げが固まっているライパンを手にし、シンクに入れた。俺たちが夕食をとっている間に冷めきってしまったのだろう、カンと金属音だけが響く。蛇口をひねって水を落としても蒸気があがることもなく、代わりにべろりと焦げが剥がれた。とはいっても、全部が全部じゃなくて。まだ居座る焦げに、水流を少し強める。

(これで落ちればいいけど……)

水につけておけば汚れを擦らずに取ることができるのだ、とハチが教えてくれたのは、彼がこの部屋に上がりだした頃のことだった。

(つい最近のことのようだけど、もう、随分と昔の事なんだよな)

出会った頃は自由気ままな学生で、それこそ毎日のようにハチと会っていたけれど、今じゃ滅多と顔を合わすことがない。互いに仕事をしている身だ。忙しいだなんて、承知している。それでも、こびりついた淋しさを拭い落とすことはできなかった。

(ハチはどう思ってるんだろうな)

ちらり、と背後、のれんで遮られた向こうの彼に想いを馳せる。バラエティ番組だろうか、弾んだ声に重なるハチの響きは楽しそうで。ぎゅうと胸が痛くなる。落ちていきそうな思考を変えたくて、俺はスポンジを握りしめた。濡らして洗剤を一滴。ちょっと遅かったのか、水だけでは流れ切らなかった焦げを擦って落とせば、すっきりするような気がしたのだ。なのに、

「何だよ、これ」

つい指先に力が入る。ごしごしごし。格闘しているのに中々落ちない。スポンジは泡で覆われていくのに、フライパンにへばりついている焦げは俺をあざ笑うかのように、簡単には剥がれてくれなかった。なんだか、胸にこびりついた淋しさみたいだ。重なって、黒くなって、落ちない--------。

「洗い物くらいするのに」

不意に背後から耳を撫でる声に驚いて振り向けば、下げてきた皿を片手にハチが立っていた。俺が作った時はハチが、ハチが作った時は俺が洗い物をするという役割分担。けど、できるだけ一緒に作れる時は作ろう、というのが俺の部屋にハチが入り浸るようになってできた約束事だった。泡まるけの手に今さら交代するのもあれな気がして。

「いいよ。エプロン、外すの忘れてたし」

そう告げると、「紐、解けかけてるけどな」と悪戯っ子みたいな眼差しで笑われた。苦手なのだ。蝶結びが。背後で結ばなきゃいけないエプロンなんてもっての外だ。そうと知っているのに言ってきたものだから「ハチが悪いんだろ」とむくれる。これ以上口にしたらケンカになってしまうんじゃないか、って、蛇口をさらにひねった。激しさを増す水音がフライパンを叩きつける。

(だって、ハチがちっとも帰ってこないから)

今日は部屋に寄れそうだ、とメールが届いたから、久しぶりに一緒に作れるかと待っていたけれど、全然、部屋のチャイムはならなくて。どれだけ待っただろうか、再びのメールには『遅くなる』の文字。そこに続く『けど、絶対行くから』の文字に、先にエプロンを着けて作り始めたのだ。下手くそな蝶結びを自分でして。-------ハチが部屋にくる前までのことを思い出して、どんどんと胸に淋しさがこびり付いていく。ぼろり、と一つ剥げ落ちた。言ったってハチを困らせるだけだ、そう分かっていたけれど、

「ハチが帰ってこないから……ハチが結んでくれないから」

握りしめたスポンジからぼたぼたと泡が落ちた。その淡い白は流しっぱなしだった水に押され、フライパンを滑り降りると、ずいずいと排水溝に吸いこまれていく。は、っと目を見開いたハチが「悪かった」と呟いた。ハチの力強い腕が、そのまま背中に回された。温かな温もりに、するりと剥がれ落ちていく淋しさ。ぎゅ、と抱きしめたかったけれど、あいにく俺の手は泡でいっぱいで。だから、代わりに言葉にする。

「この紐をさ、結ぶのも解くのもハチだけだ」

ぼたり。今度は床に泡が落ちた。俺を抱きしめる腕の力が強まる。ゆっくりと落とされたハチの唇に自分のそれを重ね、そのまま瞼を降ろす瞬間、視界の隅にいつの間にか綺麗になったフライパンが映った。熱に焦がされる。するり、と背後でエプロンの紐が外されて---------。







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