鉢雷 (現代・Route66の設定)

Route66の設定。最初から分かっていたより後の話


呑みすぎた、と思ったのは、天と地が反転して馬鹿みたいにぐるぐると回りだしたころだった。日頃、ざるだのわくだのと言われることが多くて、酔う、という感覚が分からないものだから、自分の体調の変化がお酒によるものだ、と気付いた頃には眼窩で光の渦が散逸し、ゆらゆらと揺れていて。雨上がり、ぐにゃりと曲がった世界は、とても美しいと思った。

(うー、)

黒光りするアスファルトからは鼻を焼くような臭さが立ち上っていた。街灯が落ちるそこは、油が浮いて暗い虹が孤を渡している。タップダンスを踊るような足取りの、僕のスニーカーの音だけが愉快に夜に響いていた。陽気な気持ちなのに、胸の辺りがむしゃくしゃする。

(全部、三郎のせいだ)

もしかしたらお酒のせいかもしれない、と僅かに残った理知的な僕が嫌疑を掛けていたけれど、大半の僕は「そーだ、そーだ」と大合唱を頭の中で上げている。回っている独楽がこけるよりも早く、僕の意見はそっちに傾いた。馬鹿みたいに酔っちゃうのも、こうも、むしゃくしゃするのも、泣きたくなるのも、全部、三郎のせいだ、って。

(全部、全部、三郎のせいだ、って)

せわしさの中に全部紛れ込ませてしまえば自然と思い出す回数が減っていく。そうすれば感情を反覆させることもなく、いつかは過去のことになっていく。棄ててしまって、そうやって生きていくことが賢いことだと僕は知っている。たいていのことは、笑顔で受け流して生きてきた。三郎とのことだって、同じことだ。全部過去に追いやってしまえばいい。感情なんて新たに生まれ続けて行くものなのだから。けれど、なのに、どうして。

(------どうしたって、三郎に還ってしまう。引きつけられる)

ねっとりと絡む闇に息が詰まりそうな夜だった。密とした空気の濃さにじわじわと体の水分が外に滲み出て行く。溺れかけているみたいに、澄んだ空気が欲しくて、僕は息を大きく吸った。けれど、濁った排気ガスの臭いが、ますます僕を窒息させる。このまま呼吸が停止してしまいそうだった。ほろ酔いのサラリーマン、傘を振り回す学生、暑い中限界までくっついているカップル。大通りに繰り出した人たちの足取りは、雨上がりを歓ぶかのように軽やかだ。僕も負けじと踊るように歩き続ける。すっかりと酔った頭の芯は、驚くほど冷え切っていたにも関わらず。

(ん?)

ふ、と、柔らかな橙色が僕の息苦しさを溶かした。夜を切り裂こうとするネオンとは違う、温かみのある光に、まるで焔に惹かれる蛾みたいに、ふらふらと僕は足を向けていた。一つ、二つ……最初は数えるだけしかないと思っていたそれは、遮った木立の向こうで幾千万もの光を宿していた。別の意味で、息が止まる。

「夏至のイベントなんです」

突っ立っていた僕に知らない女性が話しかけてきた。僕のことを感動して立ち尽くした、と勘違いしたのか、その人は、どんどんと勝手に話を進めていく。耳に垂れ流された多々なる会話はほとんど僕の意識の蚊帳の外だったけれど、ただ、電気を消してキャンドルに灯をともすのだ、ということだけは残った。

***

気がつけば、三郎の家にいた。もらったらしいキャンドルの灯りが照らすのは、今朝三郎から届いた手紙。ポストに入っていたのに気がづいて、けれど、見る勇気もなくて、そのまま手帳に挟み込んだままにしていた。改めて見てみると、手紙、といっても分厚い封書なんかじゃない。一枚の葉書、いや写真だった。現像した店の名前だろうか薄い灰色のロゴが規則的に混じった裏の白い部分に切手が貼られていて。その横に、アルファベットで僕の住所と名前が綴られたものだった。それは、確かに僕の名前のはずなのに、ものすごく異質なもののように感じた。

(だって、『Fuwa Rizo』なんて、まるで、別の誰かみたいじゃないか)

ちっとも実感の湧かないのは、いまいち、それが僕の記憶に残る三郎の文字と繋がらないからかもしれない。英語のノートの貸し借りはしたこともあったけれど、やっぱり、ひらがなや漢字の方が目にする機会が多かったから。まるで見知らぬ他人が書いたみたいな、そんな淋しさに陥る。

(だいたい、何だって、今さら手紙なんて送ってくるのさ)

淋しい、って思ってしまう自分が嫌で、つい、三郎に八つ当たりをしてしまう。(そんな状況を作りだしているのは三郎だから、八つ当たり、とは言わないのかも) そのままゴミ箱に直行させるつもりだったけど、落下5秒前で思いとどまった。もう一度、反対の面を向け、僕は息を呑んだ。-------- 一面の、青。

(これ、三郎が撮ったのだろうか?)

この場所にいる限り、一生見ることのできない、宇宙が透き通ったような深い深い青空がそこに広がっていた。撮影者が誰なのか、とか、どこの場所で撮られた写真なのか、ということは一切分からなかった。その青に圧倒されたのか、右下の隅に控えめに近況を伝える一言があるだけだったから。透かしても火で炙っても他に何かが書かれていた形跡はないし、短い文には当然、アナグラムとか何か意味あるメッセージが隠されているわけもない。

『もうすぐ夏至ですね。こっちは冬が近づいてます』

この葉書で唯一書かれている日本語は、僕のよく知っている彼の筆跡だった。細い線に全体的に角ばった文字、僅かに右上がりになる癖。そこに三郎が息づいているかのようだった。それでも完全に彼との面影に重ならないのは、字面そのものというよりも、言い回しの問題かもしれない。彼の口から、こんな丁寧な言葉遣いを聞いたことがなかった。三郎の体を借りた誰かが、僕にいたずらの手紙を寄こしたような気持ちに陥る。

(おまけに、夏至なのに、冬が近いなんて、)

普通は夏至だから夏が近いだろう、と間違いに溜息まじりで訂正しそうとした瞬間、あぁ、そうか、と僕は思いなおした。彼が、おそらくいるであろう場所。ルート66の歌が消えた朝、彼が言っていたこと。「ちょっと南の国まで、行こうかと思うんだけど」って。それが正しいならば、きっと彼はまだいるのだろう。この地と正反対の季節を持つ地に。

(遠いなぁ)

貼りつく汗、蒸す空気、滲む夏の匂い。僕の周りにある世界からは、どうやったって、想像できない。冷えていく指先、凍りつく息、乾いた冬の匂い。きっと、今、冷蔵庫に頭を突っ込んだって、分かりっこない感覚だ。そんな場所に、今、彼はいる。僕のずっとずっと手の届かないところに。対極に。あまりに、遠すぎた。

(棄ててしまおうか、)

ゆらり、と揺れるキャンドルの焔に急きたてられ、再び、指先が迷う。スナック菓子の袋、レポート用紙の切れ端、ティッシュペーパー。いらなくなったものは棄てられる。それだけのこと。ただ、それだけのこと。な、はずなのに。ほんの一ミリでも指先と指先に隙間を作ったなら棄てることができるのに、引きあうSとNの磁極のごとく、全く動かなかった。

-------南にいるお前と、北にいる僕。正反対の地にいる、僕たちも、まだ、こうやって繋がってるんだろうか。






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