文仙
洗いものをする水音が途絶えた。料理を振るまう代わりに片付けは仙蔵の仕事、と役割分担を決めたのは奴がこの部屋に入り浸るようになってすぐのことだったと思う。当然の権利とばかりに飯をせびる奴に「少しは手伝え」と怒鳴ったが、「いいのか?私がつくれば肉が炭の塊になるぞ」と怯むことなく不適な笑みを浮かべていたのを未だに覚えている。それでも次の日から洗い物をかって出たのには、正直、何からよからぬ事を考えているのじゃないだろうか、そう穿った見方をしてしまっていた。そう疑ったが実際の所は何も起こらず、どうやら一応、悪いとは思っていたようだ。
「文次郎」
いつの間にか部屋に入ってきたらしい。難攻不落な書類から顔を上げたのと、視界がぐにゃりと歪んだのは同時だった。
「おい、眼鏡返せ」
「この老眼鏡をか?」
「老眼鏡じゃねぇ、ばかたれ」
ぼんやりとした視界に残された人の輪郭、そこに手を伸ばす。
「お前の眼鏡姿は嫌いじゃないんだがな。キスをするのには邪魔なんだ」
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