2 「小椋?本当にそこでいいのか?」 「そうよ、恭介。もっと良いとこに行けるんなら、そっちに行きなさいよ」 いつもは40人に近い生徒が授業を受けている教室に、担任といかにも小椋家の妻ですと上質の着物を着込んですました顔の母親に言われた言葉に、断固として言い放つ。 「そこが良いんです。岩田も行くし……兄さんも行ったから……」 「でも、もっと上に」 そういう担任の言葉を遮って、「そこ以外は行く気がないです」 と言い放てば、堪忍したように「わかった」と渋々承諾した。 「まぁ、後一年あるし、ゆっくり考えなさい」 その言葉に「そうですよね、先生。まだ一年もあるし」とホッとした表情を浮かべた母親と教室を後にする。 中学2年最後の三者面談。あの話を聞いてしまった一年のときからその高校にしか行く気はなかった。 兄に近づく……とは言っても、自分に出来るのはせいぜい兄の背中を追いかけるくらいしかなかった。 久しぶりに会った母親は、いつもより若干薄い化粧を施し、すれ違う人みんなに愛想笑いを浮かべながら歩いていた。 貼り付けた笑顔が、下駄箱に到着するとスッと消える。 「なんであの高校にこだわるのよ。もっと上に行けるのなら、行けば良いじゃない!兄さん、兄さんって言って、あの子のどこが良いんだか。だいたい使用人の子供なのに……」 不意に出た言葉に、行動が止まった。 この人は兄さんの事を知っている。 「……使用人の子供って?」 低い声で聞き返すと、ハッとした顔をし、すぐにしまったという顔をする。 一瞬躊躇ったような表情を浮かべたけれど、言い消すことが出来ないと思ったのか口を開く。 「……あの子は、使用人と勝志さんの間に出来た子よ。そんな子と一緒だなんて……もっと上に行って、小椋を継いで頂戴。小椋で正式な親子なのは、あなたなのよっ」 酷く勝手な事を言っている母親の言葉を無視して、細い着物の肩を掴んだ。 「きゃっ!」と声を上げた母親に「兄さんはその事、知ってるの?」と詰め寄る。 「何、急に!痛いじゃないっ!」 無視して繰り返す。 「兄さんは、その事を知ってるのかって聞いてんだろっ!」 そう言いながら前後に揺すっても尚、抗おうとして数度攻防を繰り返したが、他には何もされないと悟ったのか、乱れた着物の襟を直しながら、 「知ってるわよ。勝志さんはそういう風に育ててたはずだから」 とぞんざいに言い放った。 「もう、これから東城の奥様と会食だって言うのに……」と文句を言いながら乱れてもいない項を撫で、下駄を履き、下駄箱から外に出る母親の背中を呆然と見送る。 振り返った母親が、 「じゃあ、ここでね。私は、多分……明後日には帰れるわ」 白い高級車が校門の前に止まり、運転手がドアを開けるとそれに乗り込んだ。 母親が帰ってこないという事は、既に自分にとってどうでも良いことだった。 あの話を聞いてしまったときから、兄のことしか頭になかった。 それなのに…… 兄さんは知っていた。 しかも……そういう風に育てられた? その事実に胸の奥がぎゅうっと痛くなる。 自分のことじゃないのに、自分のこと以上に辛くなる。 下駄箱から靴を取り出し、ぼとりとその場に落とした靴に足を突っ込む。 代わりに上履きを下駄箱に入れ、ふらふらとしながら、家路に着く。 知らされた事実に、どうして良いのかわからなかった。 ただただ兄が不憫で仕方なかった。 自分がその立場だったら良かったのに……。 本気でそう思った。 吹き付ける風は、春の日差しを物ともせずに冷たかった。 夏の日差しのように強くなりたい。 すべてを支配するような、強くて熱い、夏の日差しのように…… 中学3年生になり、兄は大学を卒業した。 だが、家に帰ってくることはなく、父親の知り合いだという人の会社で勤めをすることになった。 跡を継ぐための修行らしい。 経営者として、勤めている者の気持ちもわからなければ……そういう理由で3年ほど勤めることになっていた。 大学を卒業したら、帰ってくるものだと思っていた恭介は、がっかりとした。 だが、兄の背中を追いかけること、強くなりたいと思う気持ちは日に日に増して行き、 教員総出で反対された高校受験も難なく合格した。 そして、月日は流れ高校2年生の終り。 待ちに待った兄が、家に戻ってくることになった。 ホームルームが終わるや否や、机の上に鞄を置き、教科書やノートを詰め込む。 その様に違和感を覚えたのか、離れていた席から岩田が声をかける。 「小椋ぁ〜そんなに急いでどうしんだ?帰るのか?」 「あ、うん。兄さんが戻ってくるんだ」 「え?慶ちゃんが」 「うん、だから、急いでて……じゃあな」 「あ、うん。慶ちゃんによろしく」 小学校から一緒の岩田は、兄の事を慶ちゃんと呼んだ。 小さな頃、自分もそう呼んでいたように思うけれど、いつの間にか兄さんと呼ぶようになっていた。 ……いや、違う。父親にそう言えと言われたからだ。 駆けるようにして駅に向かう。 普段は一時間に一本しかない電車も、帰宅する時間に合わせてか、3時台からは二本に増やされる。 それでもこの電車を逃すと30分は待たなくてはいけなくなる。 ホームに駆け込んだときには既に電車は来ていて、飛び込んだ拍子にドアが閉まり動き出した。 はぁはぁと肩で息をしながら、がら空きの車内を見回して、入り口付近の席に腰掛けた。 終点の駅に着くや否や、またしても電車から飛び出し、改札を抜けて自宅に急ぐ。 小さな商店街を走り抜けると、その奥に長く白い塀が見えてくる。 権力を示すように横に横にと造られた長い家の門が見えてくると、走っていて苦しいはずなのに、頬が緩んだ。 子供のようにはしゃぐ気持ちを抑えられなかった。 兄さんに会える 盆と正月にも会ったはずなのに、その時は父親について挨拶回りをしていたからか、ゆっくりと話など出来なかった。 その時とは違う。また一緒に暮らすことを誰よりも心待ちにしていたのは、恭介だった。 門を抜けて、大きな玄関に飛び込み、いつもは見慣れない靴が置かれているのが視界に入ると、その横に脱ぎ捨てるようにして靴を脱ぐ。 ドタドタと床を鳴らし、駆け込んだ応接室の扉をバタンと開けると、音にびっくりしたのか、ソファに掛ける兄が振り返るようにしてこちらを向いた。 「お、おかえ、り」 息も切れ切れに言葉を発すると、 「ただいま。ってこの場合逆じゃないのか?おかえり」 と笑みをこぼす。 「た、ただいま……っはぁ…」 「走って帰ってきたのか?」 「うん、兄さん、帰ってくるって言ってたから…」 「はは、ありがとう、とりあえず座って……ん?恭介、また、背が伸びたか?」 鞄をどさりとソファに置き、兄の向かいに座る。 テーブルの上にはマグカップが一つあり、濃い匂いを放つコーヒーが置かれていた。 「あ、うん。178だったかな」 「えっ!?……抜かれた」 「そうなんだ。兄さん何センチ?」 「74かな?……何か悔しいなぁ……そうだ、生徒会長になったんだって?」 「うん、兄さんもやったんでしょ?」 「ああ。そういえば、あの先生、ほら数学の……」 庭に面した応接室の開け放たれた窓から、穏やかな春の風が入り込んでくる。 こののどかな会話と同じように何の気なしに話しているようで、不可思議な心臓の動きを感じていた。 既に呼吸は治まって、息も普通に出来る。 兄が帰ってくるたびに感じていた動きが、目の前に座る兄の表情一つ一つに反応する。 盆と正月に会ったときも感じた。 だけど、こうやってゆっくり時間を気にすることなく会話が出来ないからだと思っていた。 苦しい……そう思った。 だけど、その苦しさは、兄のいない家の中で、兄を思うことに比べたら、 幸せで、温かい苦しみだ、と思っていた。 父親について勤める兄と、生徒会と受験勉強に追われる自分。 すれ違うのは当然で、顔を合わせるのは、朝と夜眠る前の一時だった。 もう少ししたら、夏休み。忙しくしている自分に過ぎる時間はあっという間だった。 だけど、兄は家にいる。時間はいくらでもある。 そう思っていた自分の身に、一歩一歩、タイムリミットは近づいていた。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |