1 クライアントとの打ち合わせが終わり、自動ドアを抜けたと同時に、自分の周りに纏っていた快適だった空気が、一気に灼熱のものに変わる。 背中にシャツが張り付くように汗が噴出し、肌をなでる風は、生ぬるいを通り越して暑い程だった。 大通りに沿うように植えられた街路樹から、蝉の声が溢れかえり、感じる温度を上げているように思った。 裏路地にある駐車場に止めた車に向かうたったの5分。 アスファルトの上に写し出され、追いかけても追いつくことのない逃げ水。 何もかもを支配するような暑さに遠い記憶が蘇る。 キーを取り出して、車に乗り込み、篭って熱せられた空気に、更に汗を導き出され、エンジンをかけると同時にエアコンの温度を最大限まで下げる。 それでも吹き出される風が冷たくなるのに時間がいる。 その間、思い出さなくても良いのに、脳は勝手に思いを巡らせ始める。 ゴーゴーと音を立てて出される空気を額に浴びて持っていかれていた思考が、 車の外で「パパー」と呼ぶ小さな女の子の声で呼び戻される。 そちらに顔を向けて見れば、跳ねるように駆けてきた小さな子供を抱きしめる父親の姿があった。 あのくらいになるのだろうか……?いや、もっと大きいか? 数年前に生まれた姪を思い出す。もう、ずっと会っていない。 誕生日やクリスマス、そういったイベントにはプレゼントを贈りつけはするけれど、お礼を言ってくるのはいつも奥さんだった。 そういえば、今年の正月にお年玉のお礼の電話は姪っ子本人がしてきたことを思い出した。 7歳になると言っていたか…… 最後に会ったときは、生まれてすぐの頃だった。 それからは、仕事を理由に会うことを拒んでいる。 もちろん、姪っ子にではない…… やっと冷えてきた車内の空気を感じ、車をゆっくりと進めて、事務所へと戻る。 大通りに出る手前の信号で止まったとき、ちょうどさっきの親子が目の前の横断歩道を横切った。 父親も娘も、暑さなど気にしないと言う風に笑いながら手を繋いで歩いて行く… その光景に不意に言葉が頭の中を過ぎった。 兄さん……、あなたは今、幸せですか? 小さな子供だったころ、兄の慶介は自分にとってヒーローだった。 勉強ができ、スポーツが得意で、友達も多く、いつもたくさんの人の輪の中心にいた。 それなのに、そういったことを鼻にかけることもなく、接する人達皆に等しく優しかった。 8つ離れたそんな兄は、自慢の兄だった。 そんな彼が、小椋の家の長男として苦労していたことなど、何一つ知らなかった。 それすらも、小さな自分に見せることはなかった。 今思えば、自分以上に重いものをあの細い背中に背負っていただろうに…… それでも彼は笑っていた。 彼が笑うと、春の風が吹いていた。 今思うと、その頃が一番幸せだったように思う…… その兄が隣県の大学に進み、そのために家を出たと同時に家の中には冷たい風が吹きぬけるようになった。 もともと後妻として嫁いだ母親の真知子は、小椋の家の当主である父親の勝志の事ではなく、小椋の家の財産が好きだった。 地元だけでなく、離れた土地の同じような主婦達とつるんでは遊び歩き、これも仕事の一貫だと言い張っては、外に出る。 父親は元々家庭を顧みることはなかった。仕事なのか愛人なのかで家に帰ることは少なくなった。 そうなると、今まで賑やかだった家の中は閑散としたものに変わる。 静かになった家の中。音がしないということは、耳にしなくても良い声が聞こえるようになる。 中学校に上がったばかりで、少しでも兄に近づきたいとその背中を必死で追いかけて、 自室で大人しく勉強していた恭介の耳にそれは流れるように入って来た。 「慶介さんは、前妻さんのお子さんじゃないんですか?」 母親が家を空けるようになり、今の家政婦では手が行き届かなくなったという理由で、 新たに雇ったばかりの若い使用人が声を潜めながら言い放つ。 「違うって聞いたわよ……」 長く勤める使用人の声に、心臓がドクリと跳ね上がった。 そこからその二人は廊下を掃除しながら、恭介ですら知らなかった小椋家の事を話し始めた。 勉強そっちのけで声を辿ってしまうことを止められなかった。 当時、離れに暮らしていた使用人である女と、小椋勝志の本妻としていた女が妊娠をした時期はほぼ一緒だった。 だが、本妻である妻の子は早々に流産をしてしまう。 そして、使用人の女の腹の子が勝志の子供であったと知る。 自分の流産と愛人の妊娠。 同時に与えられた精神的な苦痛により本妻は気がふれたようにおかしくなってしまった。 おかしな行動や言動をする妻を、勝志は外に出すことをひどく嫌がった。 そうなると、余計におかしさは増していく。 そうこうしているうちに使用人の子供が生まれてしまう。 それが慶介である。 何があっても跡取りを残さなければならないと考えた勝志は、慶介を引き取り、本妻との間の子として育てることにした。 だが、本妻はそれを嫌がった。 そして……その本妻が自殺をしたのは、慶介がまだ1歳にもならないときだったらしい。 子を取られた慶介を産んだ母親も、庭の手入れをしに来ていた若い庭師とどうにかなったようで、 ある日突然消えてしまい、未だに行方不明だった。 本妻であった妻の死は隣近所には病死とされ、その六年後に勝志は再婚した。 それが恭介の母親の真知子であった…… 「そんなことってあるんですねぇ」 びっくりしたり、感心したりしながら、それでもどこか楽しそうに話す二人の声を呆然と聞いていた。 話し終わり、掃除も終わったのか、二人の声が徐々に遠のいていくと、我に返った。 本当の話なのだろうか……。 作られたような話ではあるけれど、事実と思えなくもなかった。 兄と自分は似ていない。 周りからよく言われる言葉だった。 だが、それは自分が母親の真知子に似ているからだろうと思っていた。 だけど……そういう話なら…… 日を追う毎に調べたいと思う欲求は強くなる。 事実を知りたい。 だけど、どうやって聞こう。誰に聞こう……この家の中に自分が相談などするような人物はいなかった。 いつも何かあれば、父や母ではなく、兄の慶介が相談にのってくれていた。 その兄自身にまつわること。当然、本人になど、聞けるわけがなかった。 兄はそれを知っているのだろうか…… もし、知っていたら…… そう思うと、ぎゅっと胸の辺りが痛くなった。 元々、前妻の子供でなかったとしても、父親の子供であることに変わりはない。 母親が前妻であろうと、使用人であろうと兄は自分の兄であり、 同じ父親から血を分けた兄弟であることに違いはなかった。 それなのに、痛い。 痛くてざわざわする。 これが……どういう感情かはわからない。 可哀相…とも違う。悲しい…確かに。 だけど、やっぱりしっくりとする感情の名前を探し当てることは出来なかった。 追いかけていた背中が、薄くなって消えていくような気さえして、言いようのない焦燥感に囚われた。 一番近くにいた存在の兄が、急に遠くなるような、そんな感覚。 もっと、近くに行かなくては。 今まで助けてくれた分、早く大きくなって、支えになれるほど、強くならなくては。 そう思う気持ちを捨て去ることは出来なかった。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |