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ピチャン―…

舞い上がった湯気が天井に当たり、仲間を増やして垂れ始め、重力に逆らうことなく風呂の中に舞い戻る。
湯船に浸かって、掬い上げた湯でザバリザバリと顔を数回こするけれど、頭の中まで綺麗さっぱりとはしてくれなかった。
腹の底からはぁ〜と出したため息が、熱めの湯の中に消えていく。
そんなため息を含んだ湯気が、また舞い上がり、天井に当たって落ちてくる。
ため息を含んだ分だけ重くなった水滴は、思った以上の冷たさで落ちてきて、剥き出しの肩に触れた瞬間、体が大きく跳ねて湯船が盛大に揺れた。

『どうだったかな……すみません、よく覚えていませんね……』

湯気を伴って揺れる湯面をぼんやりと見ながら、自分の勢いに気圧されたのか、申し訳なさそうに告げた横山の言葉が頭の中で繰り返す。
覚えていないということは、笑っていたのか笑っていなかったのかわからない、と言うことだ。
わからないのだから、落ち込むことなんて何一つない。
それなのに、どうして落ち込むのか……

笑っていたと聞けば、気持ちが落ち着いたのだろうか?
はたまた、笑っていなかったと聞けば、笑顔にしてやれるのは俺しかいないと、妙な優越感を抱けたのだろうか?
どちらの考えも腑に落ちない。

じゃあ、どうすれば自分は納得する?


心の中で何度も顔を覗かせて、その思いがどんな形をしているのかを知っているのに見ない振りをしてきたみたいだった。
プレゼントの箱の中身を知っている。そんな子供じみた可愛らしい感情ではなく、独占欲にも近いドロドロとした感情――
編み物の綻びのようにその先を引っ張った瞬間、すべてが解けてむき出しにされるような……

好奇心ぐらいで引っ張って良いようなものではない。
それでもそれを引っ張ってみたいと思ったのは……薄々気づいていた自分の気持ちを誤魔化せることなど出来なくなって来ていたからだ。
濡れそぼった指先でそっと先を摘むような感覚で心の綻びをそっと引っ張る。
見えてきた感情を手のひらに載せ、やっぱり……と呟く声は湯気が立ち込める風呂場に響くことすらなく湯面に吸い込まれた。

本当のところ……あの時、笑っていようが、笑ってなかろうが、そこが問題ではない。
竹中の『特別』になれれば、そんなことはきっとどうだって良かったのだ。
妙な優越感……それこそが自分が納得する一つ形だった。

それなのに……その『特別』は、自分ではなく小椋であったという事実。

どうして自分ではなかったのだろうか?
どうしてその役目が小椋だったのか……
その答えはきっと本人で無ければわからない。
わかるのは自分の気持ちだけ。
竹中を求める自分の気持ち……それが、見えてしまった。暴かれてしまった。自分の手によって。

全部が解け、見えたものが自分を苦しめる。
苦しくなるから考えたくなど無いはずなのに、人はそれを大切に大切にしたいと抱え込んでしまって、そんな身動きが出来ない自分を自分で更に傷つける。

手放してしまえば楽なのに……

自分ではない誰かの話なら、きっとそう思うだろう。

諦めろ


心の中で誰かが囁く。
いや……誰かではなく、それは自分。
相反する自分を抱えて、こすり合わせた指先の感覚が、ふやけて皺が寄り、どこか自分の指ではないような気がした。








「……見合い?」

問いかけに大きく頷いたのはお袋だった。

「俺が?」

「そう」

「……」

「あんた以外に誰がいるのよ?」

「いや……だって……」

「工場はうまく行ってる。仕事も滞ることなく入ってきてる。今が一番いい時期じゃない。それにそろそろ孫の顔がみたいってものよ……彼女とは別れたみたいだし」

「……」

吉川さんのことであろう。
別れたのではないし、そもそも付き合ってもいない。
そういうのではなくただの友達で、自分の気持ちの整理もつかないのに吉川さんと遊ぶような心境にならなかっただけだ。
それを口に出せるはずも無い。

「会うだけ会ってみてよ。父さんの顔を立てると思って」

「でも……」

「ね?」

強く言われた言葉と同時にお袋が持っていた封筒を差し出す。
それでも手に取らずにいると、半ば押し付けるようにして渡されたから、思わず受け取ってしまった。

「可愛らしいお嬢さんだったわよ」

お決まりのようなその言葉。
可愛ければ嫁にするのか?と思わずにはいられなかった。
手に持つ封筒がやたらに重く感じる。

「じゃあ、決まり。来週の日曜日、空けておいてね」

そう言って、事務所の扉を開けて、家のほうに姿を消す。
はぁ〜と大きくため息が漏れた。
するともしないとも言っていないのに、する方向に話が進んでいるということは、余程の人物から頼まれた見合いなのだろう。

わかってる。
跡を継ぐというのはそういうのも含めて継ぐということだ。
工場自体を継ぐことにまったく異論は無い。
だけど、もう少しだけ時間が欲しかった。
何かを振り切って前に進むこと。
もう少しだけ時間をもらえたら、それが出来るような気がしていた。

そろそろ身を固めても良いのだろうか……
お袋が言っていたように、またいつ工場が傾くかはわからない。
今は担当が横山だから色々と優遇してくれたり、率先してうちに仕事を流してくれているのだろう。
横山だっていつまでもこのままじゃない。
彼だって出世したり転勤したりするだろう。
そのとき、担当が替わってしまったら、うちではない工場に依頼が行くようになるかもしれない……
そう思ったら、今のうちという気がしないでもない。
時間は待ってはくれない。
自分だけが立ち止まることも。
何とか自分に色んな言い訳をつけて、頭でわかっている「正しいこと」をしようと思う。
なのに心の奥底から「それをしたい」とは思ってはいない。
社会への体裁だとか、跡を継ぐからとか、言い訳はいくらでも出来るのに、それで自分を誤魔化したり、先に進めるための発奮材料にはなってくれない。
どうしたらいいんだろう……
俺は……どうしたいんだろう……






自分を置き去りしたまま時間は過ぎる。
着慣れないスーツを身に纏い、息苦しさすら感じる襟の隙間に指を入れてはネクタイを解きたい衝動を何とか抑える。

「小椋の奥さんがもう少ししたら来ると思うんだけど……」

さっきからお袋は時間ばかりを気にしている。
相手の都合……と言うよりは小椋の母親の都合で日曜日だった見合いが急遽平日の夜になった。
それはいい。
どうってことないことだ。
だが、自分の息子ですら嫁をもらっていないというのに、どうして俺にこの話を持ってくるのか……

普段、足を踏み入れることのない高級ホテルのロビーは、上質な絨毯が敷き詰められ、歩くたびにふわふわと空を浮いているようだった。
嫌々というほど無理矢理連れてこられたわけではない。
今の心境を言葉にするとすれば、「観念した」というところだろうか。

「あ!来られたわよ」

そう言ってソファから立ち上がったお袋に倣って、自分も立ち上がる。
遠く離れたここからでも上質なものだとわかる着物を着た女性が入り口を抜けるのが見えた。
高校の卒業式に見た以来だけれど、その頃と大して変わっていないように思う。
小椋とは違って、着飾ることが仕事のような人だった。
そして、その後ろに写真で見たとおりの可愛らしい小柄なお嬢さんがひょこひょこと歩いてくる。
お嬢さんと言う言葉がぴったりの子だった。
短大を出て、地元の信用金庫に就職して3年目……だったかな。
よく覚えてはいないけれど、その信用金庫は、うちの工場がメインに使っている金融機関で、融資の話を断られでもしたら……
ある意味脅しのような見合いだった。
会わずに断れるはずがない。

「すみません、この度は……」

母親が恭しく頭を下げたので、慌てて同じようにして頭を下げる。

「いいえ、こちらこそ。お忙しいところを急に変更してしまって」

言葉はへりくだっているようでも、態度は上から圧し掛かってくるようなものだった。
子供の頃からどうも好きになれない。
本当に小椋の母親なのだろうかと疑ってしまうほどだ。

「ほら、美紀ちゃん、ご挨拶して」

「あ……はい。柳原美紀と申します」

おずおずと言い出した言葉は転がるような感じで可愛らしい声だった。
春らしい淡いベージュのワンピースに白いスプリングコート。
背も小さくて華奢な体つきで、小さな顔に大きな目が印象的だった。
その大きな目が、ぐらぐらと揺れる。
違和感を覚えずにはいられない。
彼女もこの見合いを望んでいるようには思えなかった。

「岩田直也です」

視線を合わせるとはにかんだような……困った笑みを浮かべる。
それを見て確信してしまった。
やはり彼女も言われたから仕方なくやって来たというところだろうか……

「じゃあ、ここではあれですから……行きましょうか」

小椋の母親とお袋が連れ立って先に歩く。
その後ろを二人並んで無言のままに歩く。

エレベータに乗り込むまでの数メートル。
お互いに望んでいない見合い。

それは誰かが意図して仕組んだように思う。
見合いとはそういうものかもしれない。
金にがめついところがありそうな小椋の母親がしそうではあるが、その母親も大して興味があるようには思えない。
誰かが後ろで手を引いている。


エレベータが到着して、4人で乗り込む。
操作パネルの前に立った美紀の震える指が階数ボタンを押すのが見える。
緊張しているのだろう。

去年あたりから少しずつ感じている違和感。
大手の企業から舞い込んだ仕事、今回の急な見合い……
元をたどれば、一つの行き先にたどり着く。

違う意味で美紀と早く二人きりになりたい。
そう思っていた。







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