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小椋に連絡が出来ないままに、忙しい日々は過ぎ、気がついたときにはもう、暑い夏の日が終わろうとしていた。
それでも昼間に照りつける熱はまだまだ容赦がなく、日が暮れそうな時間になっても、工場の開け放たれた入り口から入り込む風はぬるくて、こめかみで滲んだ汗が頬を伝い、顎から埃っぽいコンクリートの床にぽたりと落ちた。
そろそろ上がろうか……そう思っていた頃。

「直ちゃん!携帯なっとるぞ!」

突然響いた事務所からの声に軍手の甲でぐいっと汗を拭って、いそいそと赴けば、古株の新井さんがそっと携帯を渡してくれた。

「もしもし?」

新井さんに首だけでぺこりと挨拶して、くるりと背中を向ける。

『もしもし?岩田?』

「山下か……」

『山下かって……名前出てただろ?』

「いや、名前見ずに出たから」

『そっか……それはそうと、お前今日、暇?』

「今日?」

『そう、今日。コンパなんだけど、一人都合が悪くなって……』

「え……あぁ、うん……」

『……あの時、お前が帰った後、大変でさぁ〜』

あの時……大人気なく小椋に思いをぶつけてそのまま帰ってしまった時……のことだろうか?

「あん時は……悪かったって……すまん……」

『おお。でさぁ、その後、小椋も訳わかんないくらい飲んじゃうし……
そういうことで、お前は俺に借りがいっぱいあるって思わねぇ?』

「……」

『その前だって、散々お前の酒に付き合わされたよなぁ〜』

「……ああ」

段々と追い込まれていく状況に、行かざるおえない気持ちになってくる。

『何回だっけ?春から夏先くらいまでだから〜』

「わかったよ!」

『え!?』

「わかった……行くよ…」

『本当に?!ありがとう、助かるよ〜。時間と場所は……』

「ああ…うん…わかったよ」

パタリ…と携帯を閉じると、一斉に耳に流れ込んできたのは、名残を惜しむように鳴く蝉の声だった。
通話を切る前「遅れても良いから」と言った一言で、脅すようなことを言ってもきちんと自分のことを考えてくれている山下の気持ちが温かかった。
謝罪をしなければならないだろうか?
そう思っていた気持ちも、こんな風に言ってもらえたことによって、何か引っかかっていたものが、するりと取り除かれる。
コンパに行くような気持ちではなかったけれど、それでも山下とまたこうやってつるんでいられることが嬉しかった。

事務所に向かい、話し込んでいた親父と新井さんに一声掛けて、奥にある扉を開けて、家に入る。
事務所と住居部分は扉一枚で繋がっている。
シャワーを浴びて、支度を済ませ、「晩飯、いらない」とお袋に声をかけてそそくさと家を出る。
せっかくシャワーを浴びたから汗が出るのは嫌だったけれど、告げられた時間に間に合うか間に合わないかのぎりぎりの時間だったから、自然と足は早くなった。
帰宅時間だから昼間よりは電車の本数は多いはずなのに、それでも遅れてしまえば30分以上も遅刻することになる。
遅れても良いとは言われたけれど、山下の気持ちを考えると遅れることを避けたかった。
高台にある駅のホームに電車が止まっているのが見え、早足だった足は、駆け足になる。
ふと見た電車の向こう。その後ろに真っ赤に燃える夕焼けが見えていた
なんとなく切ない気持ちになる。
どんな一日だって、暮れていく夕焼けを見ると、どこか感傷的になるのかもしれない。
運動不足で酸素の足りない頭でそんなことを思いながら、滑り込むようにして乗り込んだ車内の涼しさにホッとした。
息が切れているから、まちまちに座った人たちの間に座ることを避け、反対側の入り口付近に立つ。
すぐに動き出した電車の揺れに身を預け、手すりにもたれて流れていく景色を眺めた。
真っ赤に染まる家々の屋根が反射してキラキラと光る。
その景色に心を奪われている間に、あの日、竹中が降りた駅のホームに到着した。
数ヶ月前。
毎週のように見た駅には、反対側の線路に電車が止まっていた。
何の気なしに見ていた景色。
隣に止まった電車の扉が開き、ゆっくりと人々が吐き出されていく。
ベッドタウンのここで多くの人が降りていくから、電車の中はガラガラになっていく。
その最後尾。
人の流れに乗るようにして歩く背中にハッとする。
竹、中……?
よぎった予感にその背中を凝視する。
そのまま目で追っていると、横顔が見えた。

竹中だ!

思った瞬間、バンと大きく手でガラスを打った。
聞こえるはずなんてない。わかっているのに、気づかせたくて、

竹中!

そう叫ぼうとして、ここが電車の中であったことを思い出す。
降りて追いかけようと思うのに、その横顔から目が離せない。
どこかうわの空のようで、覚束ない足取りでふらふらとしながら、階段を下りていく小さな背中が壁に隠れて視界から消えていく。

今なら間に合う!

そう思って振り向いた瞬間、プシューと電車の扉が閉まってしまった……
さっと車内に目を走らせると、周りの乗客から奇異な目を向けられ、目が合いそうになるとさっと逸らされた。
その原因を作り出した手は、未だにジーンと痺れている。
ふぅと大きく息を吐き出し、刺さるような視線から逃れるようにして俯いた。

やっぱりこの駅……この辺りに住んでいるのだろうか……

もう何ヶ月も連絡を待った。
待って、待って、待ち過ぎて、期待をすることをしなくなった。
携帯だって、肌身離さず持つのをやめた。
諦めた……いや、忘れそうになっていたのに、たったあれだけのことで酷く動揺している。
心臓はドクンドクンと脈を打ち、手が震える。
落ち着かず、尻のあたりがムズムズする。
今すぐにでも飛び降りて、あの背中を追いかけたい。
その衝動を、震える手を握り締めてやり過ごした。

視線を上げて、見た窓の外の景色は、次の駅に着きそうなところだった。
あの頃、必死で探した姿を、今日は何にも思っていなかったのに見つけることが出来た。
未だにはやる胸がぎゅうっと締め付けるような感覚に、吐き出す息が細く震える。
電車に揺られているのに、心はあの背中を追いかけていた。
追いかけて、腕を掴んで引き止めて……それから……

それから……連絡をくれない竹中に、いまさら自分は何を言うつもりなんだろう……

何を言いたいのか、何がしたいのか…
必死に考えたところで、自分の心は駅に置いてきてしまったから、わかるはずなんて無かった。
心だけが竹中の背中を追いかけている。
空っぽになってしまった胸のあたりに、ぽっかりと穴が開いているようだった。
考えても考えてもわからないから、ただ真っ赤に染まっていた窓の外の景色が、闇に包まれていく様を見つめていた。




時間ギリギリに着いた店は、どこにでもあるような全国チェーンの居酒屋だった。
電話で場所を告げられたとき、コンパと言えば、雰囲気の良い店だったり、雑誌やネットなんかで話題に出ているような店、もしくは自分だけが知っている隠れ家的な店ではないのか?と思っていたのに、がやがやとしている店内に足を踏み入れて、店内に目を走らせて山下を見つけた視界に懐かしい顔が並んでいるのが見えて、その意味を知った。
忙しなく動いている店員や客の間を縫うようにして近寄ると、気配に気づいた美千代ちゃんが向かいに座った田中の手を取って知らせる。
懐かしい目が10個。一気に自分に向けられて、さっきまで沈んでいた気持ちも忘れて勝手に笑顔になっていた。

「遅れてすまん」

「いや、ぎりぎり」

山下の隣の席に腰を下ろすと、みんなが一斉に「懐かしい」と声を上げる。
その声に、自分も懐かしいと思った。
山下と田中。田中と結婚した美千代ちゃんが田中の向かいに座り、その横には高校3年のときに一緒のクラスだった中本さん。そして自分の向かいにも同じく3年のとき一緒のクラスだった吉川さん。

「さっきオーダーしたけど、お前はビールで良かったよな?」

山下にそう言われ、ああと一言頷く。

「コンパじゃなかったのかよ?」

「びっくりしたほうが面白いだろ?」

「そうだけど……」

「何?岩田くんは、コンパだと思ってたの?」

中本さんに突っ込まれ、苦笑を浮かべながらも頷くと、ケラケラと声を上げる。

「残念だったねぇ。でもコンパみたいなものでしょ?私も香奈もまだ独身だし、ね?」

中本さんの言葉に、同意を求められた吉川さんを見ると、うんうんと頷いていた。

程なくして、店員がオーダーしたドリンクや料理を運んできて、小さな同窓会が始まった。
高校の頃の懐かしい話題。
多少声を上げても周りの客もがやがやとしているから気兼ねが無い。
楽しい会話に、懐かしい顔に、酒も料理も進む。
そういう時間はあっという間に過ぎていく。

「今日はありがとう、またね」

店の前で捉まえたタクシーに乗り込む中本さんを皆で見送って、この近くに住む田中夫妻と山下に別れを告げる。

「じゃあ、行こっか」

「うん」

幾分涼しくなった風が吹き抜ける。
前からやってくる酔っ払いを交わしながら、2人で駅へと向かった。

「吉川さんも実家?」

「うん。会社がこの辺りだから、本当は一人暮らしとかしたいんだけど、実家って便利だから」

アルコールで上気した頬がうっすらとピンクに染まっている。
そんな顔で、はにかむように笑われると、胸がドキリとした。
さっきまで賑やかなところにいたせいか、急に2人になって、緊張する。
その緊張を悟られないように、酔った口は饒舌になった。
同じ路線の終着駅の俺とは違い、その前の駅で吉川さんは降りる。
少しだけにせよ、酔った女の子を一人で家まで帰らせることに不安を覚え、

「家まで送るよ」

「いい!いい!駅から近いし、そんなに暗くないから大丈夫。仕事でこのくらいの時間になることもあるから」

「でも」

「本当に大丈夫だって…」

「じゃあ、帰ったらメールくれる?」

「え?」

「無事に着いたら、メールくれよ。そうしたら俺も安心するし」

「わかった」

駅について、吉川さんが電車を降りる。
ドアが閉まってゆっくりと走り出した電車に小さく手を振る吉川さんの姿に手を上げて答え、
人がまばらになった夜の電車がスピードを上げる。
揺れに体を預けていると、程なくして携帯がメールの着信を告げる。

『今日はありがとう。無事に家に着きました。岩田くんも着いたらメールして。またご飯でも行きましょう』

女の子らしい絵文字の並ぶメールに、自然と笑みが浮かぶ。
新しいことが始まる予感に、少しだけ心が軽くなった瞬間だった。







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