1 がやがやとした教室の後ろのドアに凭れかかり、岩田は友達が教科書を持ってくるのを待っていた。 数学の教科書がないと気づいたのは休み時間も終わりに近づいたときで、慌てて友人のクラスを訪ねた。 待っている時間、ふと窓際の真ん中辺りの席で本を読んでいる男子生徒に目が行った。 騒然とした教室の中で、そこだけ切り取られたような静寂を纏う空間。 特に惹かれるような容姿ではない。 初めて見るような気もするし、見たことがあるような気もする。 誰だっけ?そう思っていると 「ほれ、岩田」 声と同時に差し出された教科書を受け取りながらも目はそこから離せなかった。 俺の視線の先を不思議に思ったのか、無理矢理押し付けてくるように教科書を渡し、 「竹中?何か気になるか?」 「ん?」 「竹中純。あいつ」 「あ…いや…あっ!」 危うく落としかけた教科書を抱えなおし、礼を言うと、 「次、俺ら移動なんだ。だから、机に置いといてくれよ。あそこの席」 「あぁ、わかった。助かった、ありがとう」 席を指しながら言った友人の言葉に、もう一度礼を言ったと同時にチャイムが鳴る。 神経質な数学教師に咎められることに慌てながらも、 竹中純と何度か心の中で呟きながらも教室へと急いだ。 結局、教科書はあってもなくても数学はわからない。 無いと怒られるからと借りた教科書は、早々に持ち主に返さねば…と思い、 チャイムが鳴ると同時に教室を出たのに、 移動教室だと言っていた通り、本人は既に教室を出ていた。 示されていた机に教科書を置こうと一歩踏み入れた先に、竹中が先ほどと同じように席につき、本を読んでいる。 話しかけようか…と思ったけれど、それを許さない雰囲気を纏っていた。 さっきは感じなかった雰囲気は近づくとわかる。 誰も目に入れない。誰にも触れられたくない。 そんな雰囲気にいつもなら気軽に誰とでも話が出来る自分が目だけを留め、 自分のクラスへと帰っていく。 それが、初めて竹中純という男を知ったときだった。 教室の廊下を歩くときにそのクラスを見てしまう。 いつものように座って本を読んでいる姿を見ると、ホッとしてしまう自分がいた。 たまにいないこともある。 そのときはだいたい図書室にいるのだと友人から聞いた。 高校2年生の秋。その日は朝から雨で、空から泣いているような雨がしとしとと降っていた。 放課後、何をするでもなく教室で友達と話をしているとふと視界の隅に、渡り廊下を歩く竹中の姿が入ってきた。 図書室へ行くのだろうか?そう思うと、追いかけたくなった。 一緒に話している友人に適当な理由を言って、教室を飛び出した。 雨が降っているからか、暗い空間に足を踏み入れる。 最初にオリエンテーションで訪れて以来、入ったことのなかった空間は、2年もいる学校という場所のはずなのに、 馴染めない空気を纏う。 印刷された本の匂い。 きちんと整頓された本棚の間を縫うようにして歩いた。 どこにいるのか…。 いくつかやり過ごした先、その奥で本棚にもたれるような形で竹中は本を読んでいた。 一瞬躊躇った。 何でこんなところにいるのだろう?自分は竹中とどうなろうとしているのだろう? だけど、体は勝手に動く。ゆっくりと足を進め、近くまで来て、声を掛けた。 「それ、面白い?」 返ってくる返事もなければ、反応もない。 だけど体は勝手に動く。自分より少し下の薄い肩に手を乗せた。 その瞬間、びくりと跳ねた肩と同時に声が上がる。 「う、うわぁ!!!」 その声に反応した自分の声に司書から厳しい一言が飛んでくる。 弟や妹のいる自分の癖なのか、子供にするようにしーっと唇の前に右手の人差し指を立てて近づいた。 それに伴って逃げるように後ずさる竹中が、ゴンと後ろの重厚な本棚に頭をぶつけしゃがみこむ。 抑えた掌を避け、腫れているであろうところを探る。 触っている間に心の奥でツクンと何かが疼いた。 ドキドキと心臓が血液を送り出す。 触れているところを放し難い感情を抑え、それでも手を放し、前に座り込む。 困ったという反応に、竹中の顔に羞恥の色が浮かんでいるのを見て、 急に自分も恥ずかしくなった。 帰る約束などしていない。 だけど居た堪れなくていかにも今思い出したという言葉を出して逃げるようにその場を走り去った。 その胸の中はどうしてこんなにも気になるのか? 竹中純と言う男が… そればかりを考えていた。 3年生になって同じクラスになり仲良くなれればなるだけ、心の中で竹中という存在は大きく大きくなっていく。 その感情が「恋」であったと知ったのは、行き先も告げず、彼が姿を消した後だった―― [*前] | [次#] ≪戻る≫ |