太陽と月 2 外に出た途端、グラリと視界が歪んだ。 先に車を降りていた池上に二の腕を掴まれて、自分の足で立てないことを悟り、支えをなくすというのはこういうことなのか……と早速思いながら苦笑を浮かべようとして顔の筋肉がまったく動かないことを知った。 「大丈夫ですか?」 声を掛けながら立てるかどうかを確認する配慮を含んだ言葉は優しかったが、その同じ口で、つい先ほどまでは俺にとって辛い言葉を淡々と発していた気がする。数歩進んでゆっくりと手を離し、車に向かう池上をもう見ていられずに俯くと、目の端で綺麗に磨かれた靴が車に向かうのが見えた。 「では、私はここで……よろしくお願いします」 念を押す言葉のすぐ後、パタンと閉じられたドアの音。 続いてゆっくりと走り出すエンジンとタイヤの音。 徐々に遠ざかる音をそのまま背中で聞いて、帰らなければと思う。 目の前に見慣れたアパート。 少し古い造りのアパートがいつも以上にくすんだ色で佇んでいる。 どこかに連れて行かれるのかと思ったら、何のことはない自分のアパートの前だった。 乗った車の中で、過ぎゆく景色の中に確かにそれを見ていたのだろうが、目には映っても認識することが出来なかった。 帰らなければ…… そう思うのに足が動かない。 真っ暗で大きな穴が足元のすぐ下から広がっているように思い、その一歩がなかなか踏み出せない。 一歩でも踏み出せば、暗くどこまで続くかわからないほど深い深い穴に落ちて行ってしまうようで竦んでしまう。 今日は、小椋のマンションに行くはずだったのに…… ふと浮かんだ当初の計画にすがり、辛い現実から目を背け、池上に出会う前のことを思ってそっちこそが現実だったと思いたい気持ちが体を動かす。 目の前の暗い穴から一歩後退る。 それが正しいことのように思えて、もう一歩後退る。 このままくるりと向きを変え、駅まで走って電車に乗る。 小椋の住む街の駅で降りて、行き慣れた住宅街の中を歩き、高級な造りのマンションへ向かう。 何時に帰ってくるかはわからない。だけど、待っていれば必ず返って来るだろう。 だって、あそこは小椋の家なのだから。 待って一緒に部屋に入る。 連絡が来ないこと。 返信がないこと。 今となっては些細に思えることを訴え、『バカだなぁ純は。少し忙しいだけだよ』と笑いながら優しく抱き寄せてくれる小椋の姿が浮かぶ。 少し前なら容易に想像できたその光景が酷く遠くに感じるけれど、それでも包まれた時の暖かさはまざまざと思い出せる。 まだ……覚えてる…… 記憶の中にある小椋の胸の暖かさとトクントクンと心地良く耳に響く鼓動を今でもはっきりと思い出せる。 そうして幻想の中にいると、今自分がどこにいるのかさえ曖昧になる。 そのままその幻想の中に居たいと思うのに、池上の言葉がそれを真っ黒く塗りつぶしていく。 ここじゃない…… そう言われているような気がして胸の奥がぎゅっと痛くなる感覚に今まで堪えていた目の淵に涙が浮かびだした頃、チリリンと鳴る自転車のベルの音に気づいて、ここが歩道の真ん中だったことを思い出す。 現実に戻された意識に、避けないとぶつかってしまう……そう思うと、真っ暗な大きな穴が一瞬消えた。 その隙を逃さないように、一歩前に踏み出すと、今度は止まらない速さで、もつれながらも足が動く。 自分の部屋までたどり着くたった数メートルの距離にゼエゼエと息が切れ、ブワッと浮かんだ涙で鍵穴が見えなくて、ガチャガチャとぶつかる音が妙に耳に響いた。 何度か繰り返し、やっと入った鍵をぐるっと回してドアを開ける。 後ろ手にドアを閉めるなり、持っていた鞄を廊下に放り出すと、さっき池上が無理矢理に入れた白い分厚い封筒がちらりと覗く。 じっと見たところでなくなったりしない。 消えない現実がぼやけて黒く塗りつぶされていく。 堪え切れなくなった一粒が、静かに頬を伝ったと思えば、次から次へと止まらなくなる。 流れてくるものに嗚咽が混ざるのにそう時間はかからなかった。 「うう……うっ……ひっ……」 痛くて痛くて胸を抑えて蹲る。 流れてくる涙を拭くこともなく流したままにして、スーツのズボンの膝に瞼を押し付けて染みを作っていく。 その涙を止めてくれる優しい手を求めてはいけない。 小椋……と胸の中で呼んでも、もう求めてはいけない。 それなのに、心の中では小椋、小椋と呼んでしまう。 どうして?どうして?と問いかけて、浮かんでくるのは優しい笑顔で、言葉で、声で…… だけど、どうして?と問いかけながら、頭の中ではわかっていた。 バチが当たったんだ。 いつも優しい小椋の与えてくれるものを当たり前に思って、どんどん貪欲になって、どんどん求めて…… 幸せになっちゃいけない自分が、感謝するのを忘れて、連絡をくれないと憤り、不安になってもっともっとと欲しがったから…… それでも小椋……と心が求める。 なくしてしまうと思った瞬間から、手放したくないと気づいてしまった執着心を憎く思いながらも流れるままに涙を流す。 そんな俺をカーテンの隙間から覗く、夜空にポッカリと浮かぶ月だけが見つめているとも知らぬままに…… 池上が会社に現れた日から数日経った週末の金曜日。 心の中にポッカリとした空間を抱えたまま過ごした日々に思った以上に追い詰められる。 浅い睡眠と食欲の減退。 ひどく浅い眠りには、小椋が出てきて喜んだり、池上が出てきては落胆したり。 時には池上の言葉を小椋が言っていて、恐ろしさのあまりに目を覚まし、真夜中に真っ暗な天井を呆然と見つめて夜明けを待つ。 包んでくれた暖かさを思い出しては、自分の薄い肩を抱いてやり過ごす。 抱いた体がそうでもなくても細いのに、自分でも日に日に細っていくのがわかった。 体だけなら良いけれど、不注意で仕事に支障を来しそうになって初めて、これではまずいと思い、帰りにスーパーに寄って買ってきた惣菜をテーブルの上に放り投げたとき、テレビの上に無防備に置かれた分厚い白い封筒が目の端に入り込む。あの日以来、触れることすらできないでいた。 『何も聞かずに受け取ってください。そうして、恭介さんには二度と会わないと……約束してください』 揺れる車の中、俺が落ち着くのを待ってから池上はそう言った。 もっとたくさんのことを言っていたように思うけれど、覚えていたのはその言葉だけだった。 約束は、しなかった。 いや、言葉を発することも、頷くことも、逆に首を左右に振ることすら出来なかった。 小説やドラマのような展開にびっくりしたわけではなく、ただ頭の中が真っ白になっていた。 そんな俺を見て、池上は膝の上に置いた鞄を取り上げると封筒を中に突っ込んでしまった。 あの時、無理矢理にでも返せば良かったと思うけれど、そんなことすら考えられなかった。 意味を理解するのに相当の時間が必要だったのだろう。 返さなかったということは、受け取ったと言うことだ。 受け取ったと言うことは……約束したということだ。 そうやって時間が経って理論だてて物事を考えると、もう二度と小椋に会ってはいけないことになる。 そう思うと、胃の底に重たいものを置かれたようになって、せっかく買ってきた惣菜を口に入れることを拒否しようとする。 アルコールなら受け付けるだろうか? 何もかも忘れてしまいたい。 ほんの一瞬でも忘れられれば、それで良いような気がした。 だけど空っぽの胃と同様、空っぽの冷蔵庫を思い出したら、これからまた出かけることが酷く億劫だった。 仕方なくキッチンから箸を持ってきて、騒々しい音を聞きたくないからテレビも点けず音のない部屋でレジ袋から出した惣菜をチビリチビリとつまんだ。 味なんてわからず、ただ口に物を運び咀嚼する。 こうでなければならなかったのだ。 自分は、最初からこういう生活をしなければならなかったのだ。 赤い教室で、小椋の差し出してくれた手を取ってはいけなかったのだ。 幸せなんて……望んでは、知っては、いけなかったのだ。 苦しさと一緒に口の中の物を飲み込む。 知らなければ良かった…… そう思う気持ちにグッと喉が狭まったけれど、流す涙などとうに枯れていた。 何とか惣菜を詰め込んで、行儀悪くも箸を投げ出し、ゴロンとフローリングに寝転がると電源を切った携帯が見える。 小椋から電話があったら……そう思うと居ても立ってもいられないくらいに嬉しいけれど、逆にその電話で決定的な何かを告げられたら?また池上から何か言われたら? そう思うと恐ろしくて携帯の電源を入れていることすら出来なくて、その日の深夜には電源を落とした。 内勤だから仕事で携帯を使うことはない。 元から小椋以外に電話を掛けてくるような友人もいない。 ……自分は、なんてつまらない人生を送っているのだろう アパートのどこかの部屋から男女の笑い声が聞こえる。 週末だから泊まりにでも来ているのだろう。 テレビを見ているようで、同じタイミングで笑う声を聞いていると、世の中の人たちばかりが楽しんでいるように思えて、自分ばかりが不幸を背負っているように思えてくる。 こんな性癖でなければ、今頃もっと楽しい人生を送れていただろうか? そう思ってすぐに打ち消す。同性愛者の人たちだって、楽しい人生を送っている人はたくさんいるのだから。 結局は自分なのだ。 嫌われることや煙たがられること。 奇異な目で見られたり、今まで仲良くしてくれていた人たちから急に距離を取られたりしたら、きっと自分は大きな傷を負う。 だから怖くて、幸せになってはいけないのだと思い込んだ。 だけど……そういうことの一つ一つに真剣に向きあわず、色んな事から逃げ出して、楽な方、楽な方を選んだ自分の結果が、今の自分だ。 すべては自分を守るために自分の性癖を盾にしているだけなのだ。 また笑い声が聞こえた。 楽しそうなその声は、まだ性癖に気づく前、実家の自分の部屋にいる時に下の階から聞こえていた笑い声に似ている。 ふっと気が緩んで意識が遠のいた。 久しぶりに心地良い眠りに入って行けるような気配がして、風呂に入らなきゃ……とか、せめてベッドに移動しないと……とか、電気を消さなきゃ……そう思うのに動けない。 どんどん瞼が重くなる。 誘われるようにして入っていく眠りの世界に引きずられながらも、変わりたい、そう強く願う自分を知った。 明けた土曜日は朝から突き抜けるような晴天だった。 久しぶりに見たテレビの天気予報で南の方では桜が咲いたと言っていた。 床で眠ってしまったから体はバキバキと痛んだけれど、それでも気分だけは爽快だった。 顔を洗って、冷蔵庫を漁ると、何もないと思っていたのに冷凍にしていた食パンが見つかり、焼いてトーストにしてバターを塗ってコーヒーと一緒に食べた。 歯を磨いて服を着替える。 布団を干して、掃除をする。 溜まっていた洗濯物を干し終えると、昼間近になっていた。 部屋がキレイになると淀んでいた心が澄んでいくような気がする。 昼食を軽く取って、布団をしまい、乾いた洗濯物を片付ける。 夕方というには少し早い時間になり、意を決したように出かける準備をしてテレビの前に向かう。 まずはこれを返しに行く。 怖いけれど、逃げてばかりはいられない。 話したいけれど、小椋がいなければ、物騒だけど郵便受けにでも入れて帰れば良いだろう…… 小刻みに震える手を伸ばして、あの日以来のずっしりと重い封筒を手に取って、鞄の中に入れる。 玄関に向かって外に出る。 あの日見た真っ暗な大きな穴はどこにもなかった。 変わりたいと思った歩みを一歩一歩確かめながら駅に向かう。 そんな俺を見守るようにして、オレンジに変わりだした太陽が照らしていた。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |