太陽と月 1 手の中の砂が、指の隙間から流れていく。 小さな子供だったころ、公園の砂場で、親に連れて行ってもらった海辺の砂浜で、それを何の気なしにやっていた。 流れる砂の感触がさらさらと気持ち良かった。 だけど今、そんな感触を味わっていながらも、心地が良いだなんて一つも思えなかった。 真っ暗な部屋の中。 開け放たれたドアを見つめたままもう何時間もそうしている。 やがてカーテンを閉めていない部屋にまるで見守るみたいに月明かりが入り込み、スポットライトのように照らした扉を泣き疲れて腫れた瞼の下の目に映す。 ここの主が再び姿を現すことなど二度とないと思うのに、そこから目を逸らすことなく、ただずっと手のひらから流れていく砂の感覚を味わっていた。 そうして太陽が昇ってくるのを、ずっと……待っているのかもしれない…… クリスマスも一緒に過ごし、年末年始も一緒に迎え、楽しい日々はあっという間に過ぎていった。 そして、春が近くなったここ最近。 喉の奥にひっかかるような違和感を覚えたのは何日も前のことだった。 小椋がいればいいと思った瞬間から、小椋の動きに敏感になる。 数日は気づかなかった。幸せだと思っていた。 だけど、敏感に見ているからこそわかるその違和感。 例えて言うなら、少し前の自分を見ているような感覚だった。 「今日は?」 いつものように小椋の部屋で朝を迎え、いつものようにコンビニで朝食を買い、車に乗って会社まで送ってもらう。 そして、いつものような渋滞だった。少しずつ前に進む車の流れを見ながら、今日の予定をさりげなく聞いてみる。 「うー…ん、どうだったかな?また連絡するよ」 こちらを見ることなくステアリングを右手で軽く握り、左手を顎に置いたまま、小椋が考えるように言った。 「……うん」 顔を見ながら言った返事にやっとこちらを見た小椋が苦い笑いをこぼす。 やっぱり……と思う気持ちがないわけではない。 何かあった? そう聞きたいのにそう聞けない。 聞いて『あったこと』を知ってしまったら小椋が離れてしまうかもしれないと思うと、その言葉を口に出すことが怖かった。 意識して大切だと思った瞬間から、人は失うことを恐れてしまう。 一年前の自分なら、小椋を失ったからと言って特に怖いとも思わなかっただろう。 特別な存在だからこそ、失うことを恐れる。 二人でいる方が、一人でいるより不安定な感覚。 初めて感じたこの感覚に、振り回されていることはわかっている。 それでも失うことを恐れる自分は、単なる臆病者なのだろう。 いつものように少し早い時間に会社の前に着く。 誰かに見られて、小椋との関係を聞かれたとき、平気な顔をして「友達」と言える確信がない。 ドアを開けて外に出ると、風は冷たいけれど日差しは温かい。 ドアに手を掛け、声を掛ける。 「じゃあ……」 「うん、いってらっしゃい」 「小椋も、…がんばって」 「うん」 バタンと閉じた車のドア。 滑らかに渋滞の中に加わった車が見えなくなるまで見送った。 横から吹き付ける冷たい風に春の匂いが混じっているような気がした。 そんな日が何日か続き、小椋からの連絡が途絶えがちになった。 すぐに返ってくるはずの返事が遅れる。 予定していてもキャンセルになる。 徐々に鳴らなくなる携帯。 顕著に現れるその行動。 不安が募るのは当たり前で、憂鬱な日々が積み重なる。 今までが今までだっただけに、どうしてもその行為が裏切られているように感じてしまう。 俺には小椋だけなのに…… そう思うのが酷く自分勝手な考えであることを承知しているのに、認めたくない。 今日こそ小椋のマンションの前で待っていよう……と仕事が終わって席を立ち、鞄を握り締めた。 定時きっかりに上がることに罪悪感がないわけじゃない。 フロアにはまだたくさんの人が残ってる。 鳴り続ける電話を無視して、廊下に出て、エレベータに隠れるようにして飛び乗った。 苦手な浮遊感を味わうこと数秒。チンと軽快な音を立てて扉が開く。 歩きなれた自動ドアまでの数歩を進んだところで柱の影から行く手を阻むようにして一人の人物が進み出てきた。 黒いコートに長身の男。 初めて見る顔に取引先の人が営業を訪ねて来たのだろうと思い、避けて横を通り過ぎた瞬間。 「竹中純さん、ですよね?」 低く小さな声は、それでも聞き取りやすかった。 腕を差し出して行き先を塞がれる。 一瞬びっくりして歩みを止めた。 訝しむような視線を向けてその男の顔を見た。 年は四十代の半ばだろうか。 綺麗に後ろに撫で付けた髪に乱れは一つも無かった。 男らしい眉に聡明そうでややつりあがった切れ長の目。その奥に輝く光が、見透かすような感じで自分を見ていた。 初めて見るその男は、流れるような動作で胸のポケットから名刺を出す。 あまりにもスムーズな動きをされて、思わず受け取った名刺に書かれている会社名…… 「オ、グラ、コーポレーション……」 あまりの驚きに口に出してしまった。 小椋の実家。 「はい。私は池上と申します。恭介さんのことで……少しお時間、よろしいですか?」 その言葉に、身が固くなる。次に血液がさーっと音を立てて足元に流れていく。 クラリとしたのは気のせいだろうか。 やたらと足場の不安定なところに急に置かれたように視界がゆらゆらと揺れる。 指先から嫌な感じが這い上がり、それを誤魔化すようにして鞄を持っていない右手をぎゅっと握ると冷たい指が手のひらに当たる。 すっかり忘れていたけれど、小椋は次男だといっても大きな会社の息子だった。 出来の良い兄がいるから後を継ぐことはないだろうけど、俺と小椋……二人の関係が誰かに漏れることがあるなんて…… 少し考えればわかることだった。 毎日のように電話をして、毎日のように会っていた。 最近はそうでもないけれど…… 夜中に小椋が見合いらしい電話を断っているのを数度聞いたことがある。 あんまり断れば相手がいるのかと聞かれることもあるだろう。 そして、それでも断れば……身辺を調査することも…… 大きな会社の息子なのだ。 男と付き合ってる、なんてことが世間に知れたら…… 覚悟をしなければならないのだろうか? この人と話をすれば、小椋と離れなければならないのだろうか…… いつの間にか下を向いていた視線は、やはりゆらゆらと揺れていた。 履きなれた自分の靴と磨かれて光る池上の靴が見えた。 元々……立っている位置が違っていたのかもしれない。 そう思えば思うほどに、しっかりとまっすぐに立つことが出来ない。 咄嗟に逃げたい衝動に駆られる。 足を出して通り抜けようとしたのに、腕をその池上と名乗った男に取られてしまう。 「少しで良いんです。お時間を作ってください」 低い声には脅しているような感じではないけれど、そこには有無を言わさないといった響きがあった。 掴んでいる腕もそんなに力を入れられているわけでもないのに振りほどけない。 そして目を向けると、お願いしますと小さな声で言われる。 騒ぎを起こされるのも嫌でしょうとも。 互いが着ているコートの裾で、周りには見えていないと思う。 それでも外回りから帰社して来た営業や、定時で上がった事務の女性などで徐々にエントランスにも人が増えてきたことが雰囲気から感じられる。 コクンと一つ頷くと、池上の腕が放された。 それだけでバランスを保っていたのか、放された瞬間、体がクラリと傾いだけれど、池上は背中を向けて出口へと歩いていってしまう。 ふらふらとしながらも、その後についていく。 エントランスを抜け、外に出ると冷たい風が吹いていた。 冷たい風に少しだけ意識が正常になる。 それでも肺の中に何かを詰め込まれたようで息が深くまで入ってこない。 浅い呼吸に体の筋肉が強張って、ギクシャクとしか動いてくれない。 逃げ出すことも出来る距離なのに、池上に綱でも引かれているようにしか歩くことが出来なかった。 普段小椋がここに来るときに車を止める場所に違う種類の高級車。 その事実が寂しい。 あの車が懐かしい…… 後部座席のドアを開け、俺が近寄るのを待ってくれる。 乗りたくなどない体は拒絶反応を示して、ドアの一歩手前で歩みを止める。 「……どうぞ」 促されて操り人形のように俺が乗り込むとその横に池上が乗り込んできた。 「強引なことをして、すみませんでした」 池上の言葉と一緒に車が滑らかに走り出す。 行き先は決まっているようだった。 呼吸が浅い。 苦しい。 冷えた手が更に冷えてきて、小刻みに震えた。 「少し、調べさせて頂きました」 「……」 「恭介さんから、お話も伺いました」 何を話したと言うのだろう…… そして瞬時にここ最近の小椋の行動を思い出した。 鳴らない携帯に返事の無いメール…… ああ、そういうことなのかもしれない。 「……別れたい、と?」 落ち着いたように言ってみたけれど、情けないくらい声は震えていた。 「いえ、そうでは……」 「い、いいんです」 ひっくり返った声が出た。 膝の上に置いた鞄の上のこぶしにぎゅっと力を入れる。 考えたくないのに、そうとしか思えなくなってきた。 でも、小椋が望むならそれも仕方ない。 手を差し出した者とそれに縋った者…… 差し出される手がなくなれば、あとは支えをなくして崩れるまでだ…… [*前] | [次#] ≪戻る≫ |