幸せと孤独 4





冷たく吹き抜ける風に背中から圧されるようにして駅に向かう足取りは重かった。
視界が暗く見えるのは単に日が暮れていて、葉っぱを一枚も身につけていない街路樹が寒々しいからだと思い込もうとした。
自然と下を向く頭を何とか前に向ける。
それでも拭い去れない思いを抱えて歩く歩幅は、人並みよりも小さいからか、後から後から自分を追い抜いていく誰かの背中が遠ざかる。風に煽られて巻き上がった白いビニール袋が遠くでふわりふわりと飛んでいた。



どうして思い出してしまったりしたのだろう……

思い出しさえしなければ、自分は小椋の横で今日だって笑っていられただろうに。
思い出した笑顔を消し去りたくて、今日は一人でいようと思ったのに出来てしまった時間の狭間にひょっこりと浮かんでは消えていく笑顔は、小椋の笑顔ではなかった。
高校生の頃の笑顔と、偶然電車の中で出会ったときの大人になった笑顔。
変わってしまったようでいて、基本的な作りが変わらない笑顔……三日月の形になった目と、白い歯と……
その笑顔にどことなく落ち着かない心臓の動きを感じた。
もう何ヶ月も前になるのに、桜が咲く前の季節だったのに、忘れない自分の思考が、酷く自分を苦しめていた。

咄嗟についた嘘だから、本当は忙しくなどない。
乗り込んだ電車は、いつもと同じくらいの定時を少し過ぎた時間だからか、人々でごった返していた。
電車を降りて、アパートに向かう途中にコンビニで弁当を買う。
素面でいることに苦痛を覚え、ついでにビールも買って帰り、先に風呂に入ってビールを飲んでから弁当を食べた。
点けたテレビでお笑い芸人たちのネタに「ははは」と笑う声が一人きりの部屋に空しく響いた。

……会いたい

不意に浮かんだ言葉に、咄嗟に財布を手に取っていた。
ずっとそこにそれがあることは覚えていた。
財布を開くたび、押し込んだ先が少しだけ覗いていた。
カード類の詰まったポケットの、一番下にねじ込むようにして入れた皺くちゃのものを取り出そうとして、
指が止まる。いや、止めた。

ダメ、だ……

自分に言い聞かせる。
言い聞かせているのに、一生懸命言い聞かせているのに細かく震える指先はその奥の薄い紙を勝手に取り出した。
あの日、ぐちゃりと握った跡が、過ぎた日々に伸ばされ、圧縮され、永久的に閉じ込められていた。

大きく息を吸って、吐き出して、携帯を掴む。
心臓が嫌な感じに騒ぎ出す。ドクンドクンと体の内側に響いてくる。
寒いはずなのに手のひらだけではなく脇にも汗が噴出してくる。
取り出した名刺に書かれている11桁の数字を入力しようとした指が……そこでやっと止まった。

連絡なんてしちゃだめだ。
してどうするんだ?何を話す?
会ったりなんか、できないんだ……

繰り返すことで長く時間のかかった自問自答の末に大きく息を吐き出し、財布の中に戻してそのまま放り出し、途中で開いた財布が中途半端な形で床に歪なピラミッドを作った。

そこから視線を移し、白い天井を何となく見つめながら一日中何度も自分に言い聞かせた言葉をつぶやく。


考えなければ良い。


今もそう。
今までだってそうだった。
何度も思い出しては消し去ろうとすればするほどに思い出す。
思い出しては不毛な思いに身を捩り、捩った拍子に鋭くとがった刃物の先のように痛みを生んで傷をつける。
だから、考えなければ良い。
時が経てば、また忘れられる。

そして、今の自分には……小椋がいる。
あの頃のようにどうでも良い存在ではなく、自分の居場所を用意してくれている小椋がいる。
今朝の車の中のように、一緒にいるのに自分の心の中に別の人がいることが怖かった。
申し訳なくて、嫌だった。
居たたまれなくなって、向き合うこともせず、嘘をついて逃げた。
卑怯な自分が……申し訳ないと思う心が……同じように小さな刃物の刺されるような痛みを作る。
それでも、その場所をいまさら手放すことなんて出来なかった。
あの夏の日、幸福を知ってしまったからこそ、孤独に対する恐怖を知った。


一人になる。


それだけのことが、今はとてつもなく怖かった。



時刻は夜の9時を過ぎていた。
同じ痛みなら、小さい方が良い。
手に持ったままになっていた携帯の通話記録の一番最初を呼び出した。
少し迷って、それでも勢いだけで通話ボタンを押す。
恐怖に震え、暗闇を怖がる。そんな自分が一人じゃないことを教えて欲しい。
機械的な呼び出し音が数回なり、通じた瞬間に聞こえた『もしもし』という小椋の声にチクリと胸が痛んだけれど、それでもどこかホッとした。

『お疲れ。今終わった?うち来る?飲んだから迎えには行けないけど』

ホッとしたのも束の間、感情に流されるままにした電話で、ようやく自分の置かれている状況を把握した。
仕事で遅くなると嘘をついて家に帰って風呂にも入り、ビールまで飲んで。
寝巻き代わりのスウェットの胸の辺りをぎゅっと掴んだ。

「えっ……あ、いや……」

会いたいか会いたくないかと言われれば複雑だった。
声を聞いただけで安心したような気もした。
部屋の中に目線を落として考えていると、クスクスと笑う小椋の声が聞こえた。
直接耳に入り込んでくるその声が、どこかくすぐったかった。

『明日は?』

「明日は……早いと思う」

壁にかけてあるスーツを吊るしたハンガーに使わなくなったからと小椋からもらったネクタイが一緒に吊るしてある。視線がそこに留まる。

『じゃあ、明日来る?ちょっと遅くなるかもしれないけど』

「あ―……うん…」

歯切れの悪い返答はいつものことだけど、何となく、このままこの部屋にいるのが嫌になった。
小椋を裏切ってしまったような、この空間が。
そうしていつものように小椋はそれに助け舟を出してくれる。

『何?』

「……行っても、良い?」

『これから?』

「…うん、あっ……いや、小椋が嫌じゃなければ…だけ、ど」

なんて自分勝手なんだ……
言った途端に罪悪感が生まれる。それなのに耳に流れ込んできた声は、クスクスと笑うくすぐったい声。

『嫌だなんて思わないよ。じゃあ、待ってる。気をつけて』

「うん」

電話を切って少し考え、一度脱いだスーツに身を包む。
ピラミッドの形になった財布を拾い上げ、通勤鞄を掴んで立ち上がる。
上にコートを羽織り、マフラーを首に巻く。
マフラーによって出来た狭い空間にシャンプーの匂いが微かに匂った。
風呂上りに香るシャンプーの匂いを消す方法なんて知らない。
変に思われるからもしれないと思いながらも、知らないのだから仕方がない。

小椋が待ってる。

アパートの玄関を飛び出すとぬくもっていたはずの体が一気に冷え込んでいく。
顔を半分をマフラーに埋めて背中を丸めて駅へと向かう。
それなのに、あんなに重かった足取りが、軽くなっていた。
自分の気持ち次第で世界は楽しくも、悲しくもなる。
帰ってくるときには見えていなかった。
駅までの道のりは、クリスマスの演出する店が立ち並んでいた。
駅に着き、ホームで白い息を吐きながらそう多くない電車の到着を待つ。
ホームの隅にある喫煙スペースでタバコを吸っている人がいた。
シャンプーの香りが気になって、香りだけでも移れば良いと不自然ではあるけれどそのスペースに近寄った。
風の方角から考えても移らないのに、どうしてかそこにいたくなった。
滑り込んだ電車の車内は暑いくらいだった。
小椋のマンションのある駅に着いたときには既に10時を過ぎていた。
住宅街の道は暗い。時折通りの家の中から家族の団欒の声や、テレビの音が聞こえる。
暗い道を歩きながら、これで良かったのだと言い聞かせる。
小椋を心の中、頭の中でいっぱいにする。
エントランスに入り、インターホンを押す。
人気の無いエントランスに『お疲れ、入って』と言う声が響き、同時に自動ドアが開いた。
見慣れてしまったエレベータに乗って最上階へと運ばれる。
コツコツとコンクリートに響く自分の足音。
ドアの前で止まると同時に内側からドアが開いた。

「おかえり。寒かっただろ?」


おかえり


当たり前になっていた小椋の存在。
埋もれていた砂の中から、浮き彫りになったような気がした。
温かく迎え入れてくれた小椋が「純、何かタバコ臭くない?」と言う言葉に「そうか?」と返しながらも、思わず頬が緩んでいた。






小さな岩田の欠片は、時々日常の中で顔を出す。
あの日のようにコンビニだったり、自分が行っていた高校の制服を着た高校生を見たときだったり、テレビやラジオから流れてくる懐かしい曲だったり、駅のホームだったり、どこかから吹く風の中に紛れ込んだ何かの香りだったり、暗くなった帰り道に見上げた三日月だったり……
そして思い出す。
昔もこうだった、と。
大学に行くために離れた地でもこうだった。
何かがきっかけで思い出し、時間を掛けて忘れていく。
日々は、その繰り返しだった。
それでも時間が経てば忘れていく。色褪せていく。
そして、誰かによって塗り替えられ、記憶の奥底へと仕舞い込まれていく。
思い出す笑顔が小椋の笑顔へと変わっていく。
その笑顔に包まれ、日々が過ぎていく。

それで良い。

小椋がいれば、それでいい――





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