幸せと孤独 3




目が覚めて見えたのは、日に焼けていない小椋の白い胸だった。
抱え込まれた腕の中からそっと視線を巡らせる。
薄いレースのカーテンを抜ける朝の白い光が照らし出した部屋は、昨夜の熱情を隠すことなく曝け出す。
床に散らばる服。
乱れたシーツ。
溢れ出したゴミ箱。
絡まったままの互いの足。
熱を孕んだまま、何かが入り込んだような違和感の拭えない自分の体……
断片的に思い出される月明かり照らされた光景は、恥ずかしいものなのに、
それが酷く幸福感を味わわせる。

絡まったままの足をもぞもぞと動かせば、抱え込まれている腕の拘束が強くなった。

「……はよ」

「おはよ」

「何時?」

「多分、6時過ぎくらい……」

「昨日と違って、早起きだね」

「……腹減ったから……」

「……そうだな」

くすくすと小椋が笑うと、それに合わせて自分の体も揺れる。
腕の拘束が外され、首の下から小椋の腕がすり抜けた。
むくりと起き上がった小椋が、その手で顔をこすり合わせる。

「とりあえずシャワー浴びようか?このままじゃ仕事に行けないから」

「……うん」

シーツから抜け出した小椋が、体の上に馬乗りになる。
昨日と同じようにして両腕を取られて、起き上がった先は寝起きなのに既に整った小椋の顔の目の前で、
予想していた通りに、チュッと可愛らしい音を立てたキスを、恥ずかしがることなく受け入れた。
その拍子に、鈍く重い痛みが腰に広がる。
眉間に皺を寄せると、気づいた小椋がそのまま抱き込んで、腰をゆっくりと擦った。

「……ごめん」

「いやっ……小椋が謝ることじゃない…」

「痛い?」

「……少しだけ。我慢できない程じゃないから……」

「そっか……」

「うん」

ゆっくりゆっくり擦る手のひらの温かさに、じんわりと広がった痛みが緩和される。
一時の間そうしていると、そっと手が離された。
小椋に腕を取られて、ベッドを抜け出す。
足をついて立ち上がったけれど、うまく体が支えられない。
それを見かねて小椋が腕を貸してくれた。

「甘えてって言ったよね?」

「……うん」

俺たちよりもずっと早起きな街の喧騒を背中に聞きながら、支えてくれる腕を頼りに、一緒に浴室へと向かう。
欲情の後を流し合い、洗面台に並んで緑と青の歯ブラシに雫を滴らせた。
服を着替えるために寝室に戻り、床に広げられた皺くちゃのスーツを拾い上げると、スルリとそれを取り上げられた。

「これ、着てくの?」

「…うん」

考えなしの行動が生み出す小さなリスクたち。
昨日も暑かった。
スーツは仕方ないにしてもシャツと下着は取り替えたい。
そう思っていると、

「……首周りは?」

一瞬小椋が何を言ったのか聞こえなかった。

「うん?」

「首周りと手の長さ……半そでなら手の長さはいいか……」

ボソリとつぶやく声に意図が読み取れて、焦った。

「い、いいよっ!」

「だって、こうしたのって俺だろ?」

「いや、でも……」

「昨日のうちに洗濯しておけば乾いたんだろうけど……
これからは純の荷物、少しだけでも置いておかないとな」

クローゼットを漁る小椋の背中を見る視界の中が、滲んでいく。
必死に奥歯を噛み締めて堪えたのに、目の淵で盛り上がって溢れようとする。

「あった!」

声を上げて、振り返った小椋が一瞬動きを止めて、目の淵を優しく撫でる。

「どうした?」

「……いや、うん……ごめっ……」

その手をそっといなして、隠すようにして自分の手の甲を当てると、熱い涙の感触がした。

「……純」

ふわりと掛けられたシャツごと抱きしめられた。
甘い雰囲気が流れ出して、心臓がドクンドクンと心地良い音で鼓動を始める。
唇を合わせるだろうと目を閉じて、上を向いたその瞬間。
その雰囲気を壊すようにして互いの腹がぐうっと盛大になったから、目を開けると、小椋の目と視線が合った。
その瞬間に噴出すようにして、はははと笑う二人の声が部屋の中に響く。

「途中で飯をがっつり買わないと」

笑いながら小椋がそう言った。
奥のほうから引っ張り出されて着たシャツは思っていた通り、少し大きかった。
グズグズになる首回りを小椋が使わなくなったネクタイでごまかし、スーツを着込んでリビングでコーヒーを飲んで会社に向かう。
昨日と同じような朝。
昨日よりもずっと……ずっと幸せな朝だった。


幸せの片鱗が小さく顔を覗かせる一日。
普段は自分のことを気にも留めない女子社員にネクタイを褒められたり、
気を抜くと不意に浮かんでくる月明かりの光景に、一人あたふたと慌てふためいたり。
パソコンの電源を落として、未だに重い痛みを伴う腰を椅子から引き剥がし、バッグを片手にロビーを抜けて会社を後にする今でさえ、どこか夢の中にいるようでふわふわと浮いて霞の中を歩いているようだった。
外に出ると、昼の熱気を含んだ風が一瞬にして纏わりついて、現実を知らせる。
それでも駅に向かう足取りは軽かった。
昨日は無理に早く帰らせてしまったから、今日会うのは無理だと朝の車の中で言われていた。
わかっているのに、その現実が寂しい。
寂しいけれど、昨日とは明らかに違う。
会えないということに落胆はしても、それで痛みを抱くものでもなかった。
心が歪んで、ギシギシと音を立てるようなこともない。
真っ暗な自分の部屋に帰り着いても、コンビニ弁当を一人で食べても、寂しいけれど、
以前のように、暗い井戸の中から手を伸ばして届かない星や月を眺めるようなどん底の気持ちは浮いてこなかった。
風呂に入って、何とはなしにテレビを見る。
小椋はまだ仕事をしているのだろうか……
テーブルの上に出したままの携帯を見つめる。
手にとっては開いて、メールの画面を呼び出すも、何を送れば良いのかわからず、また閉じる。
何度となく繰り返し、日付が変わる頃になってやっと送ったメッセージは「おやすみ」のたった一言だった。
電気を消して、ベッドに横になっても眠気は訪れず、暗闇の中、カーテンの隙間から入る明かりにうっすらと浮かぶ枕元に置いた携帯を見つめる。

やっぱり……昨日、かなり無理をさせてしまったのだろうか……
こんな時間になっても返信がないということは、かなり忙しいということだろう。
いや……それとも、もう家に帰って疲れて眠ってしまったのかもしれない……

返信が欲しいと送ったわけではないし、返信をしなければならないような内容でもない。
たった一言の「おやすみ」に、自分は何を期待していたのだろうか……

心の中に小椋の居場所がきっちりと出来上がってしまった今、一人でいることが当たり前だと思っていた日々が酷く遠く感じる。
あの頃の自分は何を思って、眠りに着いていたのだろうか……

ブーンブーンと震える音と、着信を知らせるライトの瞬きに、びくりと体が跳ね上がった。
急いで掴んで開いたディスプレイに見えた文字。

「もう寝たかな?明日電話するよ。おやすみ」

たったそれだけのメッセージが嬉しくて顔が綻ぶ。
さっきまで考えていた色々なことが吹き飛ばされる。
誰もいない部屋の中。
携帯に向かって「おやすみ」と告げ、導かれるようにしてベッドに横になれば、自然と訪れる眠気に促されて目を瞑る。
眠りに落ちるその瞬間。
こんな日がずっと続けば良いと思った。
続いて欲しい……
そう願いながら、眠りの世界に落ちていった。





世界にたった二人しかいないような、密度の濃い日々は、あっと言う間に過ぎていった。
自分が望もうが望むまいが、季節は誰にでも平等に巡る。
暑い日差しを受けて燃え上がった夏の日が過ぎ、青々とした山々と共に色づき、身を寄せ合って凌ぐ冬になった。
その間、毎日のように連絡を取り、週の半分を抱き合って、絡み合って眠りにつく。
そうやってどんどんと小椋の存在が大きくなる
胸の中を支配していく。
あの日願ったことが叶えられていく。
そして、それが……当たり前になっていった。



吐く息が白く漂う朝。
いつものように小椋の部屋に泊まり、朝食を買うためにコンビニに入る。
慌しい人々に倣って、缶コーヒーを手に取り、パンの並ぶ棚に向かう。
いつもならすんなりと決まるはずなのに、目移りをしてなかなか決まらない。
小椋の様子をちらっと見れば、おにぎりのコーナーで何個か手に取り、レジに向かっているところだった。
急いで手を伸ばしてその中の一つを取ろうとした瞬間。
横から出てきた手に気づいて、自分の手を引っ込めた。
それなのに……目が離せなかった。
いつかの光景が目に浮かぶ。
大きな手。
その大きな手の細く長い指が取ろうとしたパンを一つ掴んだ。
そっと視線を横に移せば、作業服を着た男だった。
訝しむ視線を残して、男はレジに向かう。
その背中を追いかける。

岩田……かと思った。

二人しかいない教室で、破れた日誌を繋ぎ合わせる、大きな手。
細く長い指は器用に動いていた。
三日月の形に目を細め、白い歯を除かせて、大きな声で笑う笑顔を思い出す。

岩田は何をしているのだろう……元気にしているのだろうか……?


「純?」

掛けられた声に、体がビクリと跳ねた。

「決まった?」

「う、うん」

優しく聞いてくれる小椋の声に反応して、適当に掴んでレジに向かう。

「先に車に行ってるから……」

背中に掛けられた声に、振り向きもせずコクンと頷く。
会計を済ませ、車に乗り込む。
スムーズな動きで、滑るように動く車は渋滞につかまり、なかなか前に進まない。
運転をしながら、小椋がおにぎりを食べる。

「……食べないのか?」

「あっ……いや、食べる」

ガサゴソとコンビニ袋からパンを取り出し、袋を破って一口齧る。

「今日も早いと思うんだ。終わったらメールする」

隣から聞こえてくる声に、向けられる笑顔に、ツクンと痛みを感じた。

「うん」

頷きながら、頭の中で笑顔が浮かぶ。
小椋じゃない笑顔。

「あっ……俺、今日忙しかったんだ……」

「そっか……じゃあ、今日はやめとくか……」

「ごめん」

言って、一口パンを齧る。
味のしないパンは、ぼそぼそとして目の前の渋滞のように口の中に滞った。


「ごめん」

もう一度小さくこぼれた声は、小椋には聞こえていなかった。
それでも言わずにはいられなかった。
幸せになってはいけないと思った自分に、隣にいても良いと思わせてくれた小椋に対しての罪悪感。
思い出してしまった笑顔に、ドクンドクンと震える心臓を、認めてしまったから……




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