幸せと孤独 2




送信完了の文字が表示されたまま、ディスプレイの明かりが落ちる。
そのまま閉じてポケットに携帯を滑り込ませた。
それを合図に急に動き出した耳に雑踏が入り込んで来て、止めていた足を人々の流れに沿って駅へと向かわせる。
じわりと滲む汗の感触。
いつもと違うホームに立ち、電車が運んできた生ぬるい風を体で浴び、とぼとぼと電車に乗り込んだ。
ガタンガタンと線路の継ぎ目で揺れる車体に身を任せる。
席は空いていたけど座る気にはなれなくて、反対側の入り口付近に立って流れる景色を眺めていた。
速度を落とした電車が滑り込んで止まったホームに、導かれるようにして降り立てば、
吐き出される人のほうが圧倒的に多くて、ベッドタウンであることを伺わせた。
改札を抜け、いつもは止まっている高級車のいないロータリーに止まるタクシーを横目に、
さっきより幾分涼しくなった風を受けながら夜の街を歩いて、やっとたどり着いた小椋のマンション。
見上げた最上階は、どこの部屋にも明かりがついていなかった。

来てしまってから、気がついた。
小椋が何時に帰ってくるのかわからない。
いやそれ以上に小椋の返事を聞いていなかった。
メールで待っていると伝えようか?
返事も貰わずにそんなメールを貰ったら迷惑だろうか?
だったら、このまま帰ろうか……
立ちすくんでどうしようかと滑り込ませたポケットの中の手がフルフルと震えを知らせるものにあたる。
取り出して開いた画面には着信を知らせる小椋の名前。

一呼吸置いてから、通話ボタンを押した。

『純?』

「……」

『もしもし?』

「……もしもし?」

絞り出す声は、喉が渇いているのか、それとも罪悪感からか、はたまた両方か……
すべりが悪くて、喉の奥に引っかかった。

『今、どこ?』

「えっと…」

『うん』

「その……」

『うん』

小さな子供に聞くみたいにやさしい相槌の声を聞いて、ちょっとだけホッとした。
言おうかどうしようかと迷っている自分の脇を、車が一台通り過ぎる。

『マンション?』

「えっ…」

『俺のマンション?』

続けて聞こえた声に、どうしてわかったのかと焦りが生まれる。

「……う、うん……」

返事をすれば、ちょっとした沈黙。
暑さではないものでじわりと汗が浮かんだ。

『待ってて』

「え?」

『すぐに帰るから、そこで待ってて。帰らないで』

「……ごめん」

『ううん。……じゃあ、またあとで』

「……うん、あとで…」

ぷつりと切れた携帯を耳に当てたまま、漸く夜へと変わり出した空を見上げて、耳から離す。
耳の周りにまで汗をかいていて、ぬるいなりにも夜の風が冷やしていく。
待っててって…言った。
小椋はすぐに帰るからって。
忙しいと言っていたのに、自分のわがままで早く帰らせることに罪悪感が沸いてくる。
でも……それ以上に嬉しかった。
すぐに帰ってくると言ってくれた、小椋の言葉が、今は何よりも嬉しかった。



マンションのエントランス前へと続く階段沿いに植えられた植木のコンクリートの淵に腰掛け、
どこからともなくやってくる蚊と戦いながらの30分ほど。
この時間は道が混んでいる。だから遅い。
自分に何度言い聞かせても、わかっているのに待ち遠しくて落ち着かない。
何回も腕時計で時間を確認して、さっきからまだ5分も経ってない。
曲がり角を曲がって、マンションへとライトの明かりを灯し走ってくる車が、全部小椋の車に思えてくる。
そのたびに腰を浮かし、通り過ぎる車に落胆を含んだ視線で追いかける。
何度も何度も繰り返し、そのうちにあきらめて目で追うこともしなくなった頃。
静かに滑り込むようにして、地下の駐車場に入っていく一台の高級車。
小椋だ。
そう思った瞬間、地下の駐車場へと体が勝手に向かっていた。
駆けて入り込んだ地下の駐車場のいつも小椋の止めてある辺りから放たれていたライトが消され、
高級車らしい静かなエンジン音が消える。
そんなに走ってないのに……
朝も会ったのに……
そう思うのに、心臓はドクンドクンと早鐘を打つ。
体全体に伝わるような鼓動に、自分でもどう対処していいのかわからない。
運転席のドアが開き、見慣れた長身の姿が目に飛び込んできたとき、一際大きく心臓が跳ねた。

「純?」

すぐ近くまで来ていたのに、そこで足が止まってしまった。
うつむいて見えたのは、濃紺のスーツのズボンと革靴と薄暗い蛍光灯に照らされた自分の影だった。

「ただいま。待たせてごめん」

ふわりと笑うような声が聞こえ、そっと目線を上げると、怒っていない小椋の顔。

「……いや、こっちこそ、…ごめん」

「何が?」

地下の駐車場はやたらに音が響く。
コツンコツンと近づいてくる足音。
通りを走る車の音が遠く聞こえる。

「会、いたい、とか言って……忙しかったのに……」

「…うん、まあね。部屋に行こうか。ここじゃなんだから……」

そっと近くまで寄った小椋にぽんぽんと背中を押され、エレベータまで導かれる。
最上階のボタンを押して、扉が閉まった瞬間だった。
腕を取られて引き寄せられ、ぎゅっと強い力で抱きしめられ、
微かに香るコロンの香りの中に汗の匂いが混じりこむ。

「お、ぐら……?」

「嬉しかった」

「……」

「純から会いたいってメールが来て、嬉しかった」

不安だった。
ここに来るまで。
小椋に会うまで、ずっと不安だった。
言っていいのかどうなのか。
ずっと幸せになってはいけないと思っていたから。
会いたいなんて言って、困らせちゃいけないと思っていたから。
ドクンドクンと響く心臓が、不安定の中で安定していく。

「だから、もっと言って欲しい。もっと甘えて、いいんだよ……」

耳のすぐ横で紡がれる言葉が、会社を出たときの痛みをゆっくりゆっくり取り除いていった。






玄関を開けて入り込んだ瞬間、慣れた唇に唇が塞がれ、貪るように求めた体がそのままベッドになだれ込む。
体を触れられているのに、剥き出しになってしまった心に触れられているようだった。
いつも以上に感じて敏感になって、一度では足りず、何度も何度も求めた分だけ、与えられる。
組み敷かれて繋いだ手を口にせずとも届いて欲しいと願った気持ちを伝えるようにぎゅっと握る。
その強さの分だけ、握り返す手は熱かった。

堪えきれなくなった快感に爆ぜ、体の奥に熱いものが叩きつけられた感触の後、
どさりと音がしそうな勢いで倒れこんできた小椋の体を受け止める。
心地よい重みだった。
お互いの吐き出す息の音だけが、レースのカーテンだけを引いて月明かりが入り込む部屋に響いていた。
ゆっくりと顔を上げた小椋の汗で額に張り付いていた前髪を横に流すと、
同じようにして触れられて、ぎゅっと目を瞑ると額にキスが落とされた。
体の中から小椋が抜けていく感触に心もとなくなって、
そのまま横にゴロンと転がる体に擦り寄るようにして胸に額を貼り付けた。

「……晩飯、食べ損ねたな」

「あ……」

「腹、減ってない?食べに……行くのは面倒だな」

「…冷蔵庫、何か入ってるか?」

「いや。何もない……」

「カップラーメンとか」

「……それもない」

「……そっか」

擦り寄った頭ごと抱えられて、抱き込まれると、汗と雄の匂いが濃く香る。
お互いの体は汗やそれ以外のもので気持ち悪いはずなのに、それすらも気にならない。
腹が減って、体力も限界なのに、ダムのように堰き止めていた気持ちが、
溢れて散々求めたはずなのに性懲りもなくまた小椋を求め始める。

「……一食くらい食わなくても死にはしないよな」

そう言ってまたしても組み敷かれた小椋の背の向こうに、レースのカーテン越しにぼんやりと月が見えた。

「月が……」

「ん?」

「笑ってるように見える……」

一瞬動きを止めた小椋が、

「純は……詩人だな…」

そう言って、ふっと笑って小椋の影で月が遮られ、そっと唇を塞がれる。
さっきまで潤っていたはずの小椋の唇が、乾いていたのに気づき、濡らすようにして、舌先でなぞった。






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