幸せと孤独 1





「純」と呼ぶ声が遠く聞こえた。
小椋の声。
その声に、昨夜泊まったことを教えられる。
ゆさゆさと揺さぶられ、うっすらと目を開け、ぼやっとした視界が開けてくれば、
きっちりと仕事に行く準備を整え、朝の光を跳ね返すくらいの小椋の笑顔。

「遅刻するよ」

「う、ん……うん」

「起きた?」

「…うん…」

「もう、7時だけど?送って行くから……ほら、起きて!」

覚醒しきっていない頭は反応が鈍く、馬乗りになって両手を取られ、
無理矢理に起き上がらされた位置は小椋の顔の目の前だった。
来る、と思ったときには遅くて、
避ける暇も無くチュッと可愛らしい音を立てたキスに数秒遅れて恥ずかしくて俯いた。

「恥ずかしいの?」

聞かれてうんと頷くと、もっと恥ずかしいこともたくさんしてるのに…と俯いた頭にかけられる。
それはそうだけど……、この関係がくすぐったい。
朝の光に照らされて良いような関係に思えない。
暗い夜の闇の中なら、言いにくい言葉も、恥ずかしい格好も出来るけれど……

そのまま両手を引かれ、洗面所に連れて行かれる。
「飯は途中で買おう」

そう言って、扉のある棚から出されたのは、真っ青な歯ブラシ。

「使ったら、そこに入れておいて」

そこと強調されながら指された先は、鏡の前のコップ。
小椋が使っているであろう緑の歯ブラシが既に雫を垂らして、そこにいた。
言うだけ言って小椋は出て行く。
俺が寝ている間に済ませてしまったのだろう。
手の中にある歯ブラシを見つめる。
居場所を与えられた歯ブラシ。
今まではホテルにあるような使い捨てのタイプだったのに……
そう思うと、胸の辺りがさわさわとしだして落ち着かない。
俺の居場所も与えられた…?そう思っていいのだろうか?
体の関係だけじゃない。
浮かんで見える心の関係。
慣れないそれは、酷く居心地が悪い。
けれどそれを、嫌だと思う気持ちは浮かんではこなかった。

歯を磨いて顔を洗い、スーツを着込んでリビングのドアを開ける。

「そう……うん、確かなところだよ。いや……」

誰かと電話をしているらしい小椋が、振り返ってキッチンを指差す。
どうやらコーヒーを淹れているからそれを飲んで待ってろと言うことらしい。
キッチンに向かい、慣れた動作で棚からカップを2つ出す。
今になって漸く居場所を与えられたと思っていたけれど、
本当はとっくの昔から与えてくれていたのかもしれない……
お揃いのマグカップ。
料理をしない小椋の部屋で、唯一使い込まれた感じのあるそれは、
自分が来れば、必ず小椋が出してくれたものだった。
香りの良いコーヒーを注ぎ、小椋の分も持ってリビングに行く。

「……うん。じゃあ、地図と住所と連絡先はすぐにメールで送るから。
いや、大したことじゃないよ。ああ、じゃあ、またな」

漸く電話を終えた小椋が、通り過ぎざまにありがとうと言って、
俺の手からカップを受け取り、書斎に行く。

「純、もうちょっと待ってて。会社には間に合うよな?」

廊下に反響する声に、聞こえるように大きく「うん」と返すと、
パタンと書斎のドアの閉じる音が聞こえた。

朝の情報番組のテレビの声だけが響くリビング。
日は既に高く上がって、暑くなりそうな日差しが大きな窓から容赦なく降り注ぐ。
最上階だからそんなに大きく聞こえるはずもないのに、
外から流れる朝の喧騒が聞こえるような気がした。

広いリビングで立ったまま、ずずっとカップからコーヒーをすする。
いつも通りに香りが良くて、ちょっぴり苦い小椋の家のコーヒーの味。

中学生で自分の性癖に気づいたとき、幸せになれないような気がした。
気づかれて、傷つけられることを恐れた。怖かった。
そして、大学を卒業し、社会に出てからも心のどこかで幸せになってはいけないと諦めた。
小椋もそのうち飽きるだろうと。
なのに……
なのに今このリビングにいて、感じているのは……確かな幸福感だった。
人にとっては何気ない日常の一コマに過ぎないだろう。
でも俺にはそれが、酷く幸せで、肩の力が抜けそうな、気持ちが緩むような、
心が満たされるような幸福感。
湧き上ったものが、目頭を熱くする。
慌ててカップに口をつける。
喉の奥に流れる熱い感触に、痛くて涙が出そうになった。
熱かったから……
小椋すらいない広いリビングで、誰ともなしにそんな言い訳を心の中でしている自分がいた。





定時を1時間ほど過ぎ、その日の仕事が終わりに近づいた頃。
スーツの内ポケットに押し込んでいた携帯がブルブルと震えた。
取り出して見れば、小椋からだった。

『今日は忙しい』

たったそれだけのメッセージ。
見るだけ見て、そのまま内ポケットに滑り込ませ、また仕事に目を向ける。
アルファベットと数字が羅列したディスプレイを見ながら、だから?と思った。
だからどうしたと言うのだろう。
忙しいならメールだって送らなければ良いのに、と。
何となくひっかかりを覚えながらも、意識を打ち込みの作業に戻した。
そして、一段落終えたところで、会社を後にする。
エレベータを降り、ロビーを抜けて社外に出る。
冷房が効いていた社内に比べて、むわっとした昼間の熱気を含んだ風は、
一気に纏わりついて、不快感を抱かせた。
駅までの道のりをとぼとぼと歩きながら、さっき押し込めたメールの意味を問う。
忙しい……
わざわざ小椋が言ってきた。
忙しい……だから?

「だから」の後に続く言葉を探す。



『だから、会えない』


きっとそうだろう。
だから会えない。

心の中でもう一度呟く。

約束なんてしていない。
朝送って貰ったときにだって、小椋の口からそんな約束は出てなかった。
それなのに……

その言葉を見つけた瞬間に芽生えた不快感。
纏わりつくような熱気以上に嫌な感触。
会えないと思う心がいびつに歪んでいく。
歪んでギシギシと音を立てる。
窮屈にぎゅっと縮んで、痛みを作る。

慣れたはずの孤独が嫌な音を立てて近寄ってくる。
今朝、感じた幸福感が遠くに思えて、
駅に続く道の端によって内ポケットから携帯を取り出した。
今まで、一度だって送ったことのない言葉を打ち込んで、
送信ボタンを一瞬躊躇って、それでも押した。



『それでも会いたい』



小椋の手を離すことが出来ないところに、自分が到達した。
そう思った、瞬間だった。





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