鞄のファスナーを閉めて、取っ手を掴んで立ち上がり、ゆっくりと部屋の中を見直す。
たった一年半……
それでも積み重なるようにして出来た思い出がたくさんあった。

初めて連れて来られたとき、たった一晩で帰るつもりだった。
次の日にお金を借りて田舎に帰り、すぐにお金を返せば良い……それくらいの気持ちだった。

大好きだった人も手持ちの現金も何もかも失って道端に蹲っていたとき、うららに声をかけてもらった。
反対した両親を振り切るようにして出てきたから、帰りづらかった。
でもそれ以上に、ここに私がいる理由がなかった。
親切な人だなぁと思い、何度も何度もお礼を言って支えられるようにしてたどり着いたマンションは立派な建物だった。
だけど……扉を開けた瞬間、見えた景色に絶句した。
足の踏み場こそあれど、決して綺麗と呼べる玄関ではなかった。
大きな靴が散乱し、積み上げられた靴箱が今にも崩れ落ちそうで首をすくめながら廊下を歩いた。
やっとたどり着いたリビングには服が山積みになっていて、ソファから床にかけて雪崩を起こし、
テーブルの上には空き缶や酒瓶、食べ終わった弁当ガラが置かれたまんまで、灰皿には山盛りの吸殻。
呆然と開いた口が塞がらないままリビングの入り口に佇んだ私を見て、

「ごめんねぇ、片づけが苦手で……」

そう言ってうららは少しだけ気まずそうな顔をして、バタバタと慌てて片付け始める。
だけど、片付けられたものは右から左に移すだけで、どうぞと招き入れられた空間もすぐに雪崩を起こしてしまう……
泊めてもらったお礼に……そう思って掃除を申し出るとすごく喜んでくれた。
その掃除が……一日じゃ終わらず、何日かしたとき、

「どうせ帰ったってすることないんでしょ?だったらうちでゆっくりすればいいじゃない」

そうして、奇妙な同居生活が始まった。

楽しかった。
由美子さんやお店の子が時々遊びに来てくれて、居場所を与えられるってことがこんなにうれしい事だとは思わなかった。
田舎にいるとき、両親の元にいるとき、それは当たり前に与えられるものだと思っていたから……



質素な生活を心がけていたつもりだけど、そのひとつひとつのものがこんなにも重い……


ぎゅっと力を込めて取っ手を握る。
そのままドアノブを引いて廊下に出た。
しん…と静まり返っている。
真っ暗な闇の中、それでも壁伝いに歩いて、何にもぶつからない程度に馴染んだ廊下を歩き、玄関に向かい、
履きなれた自分の靴を取り出し、玄関のノブに手を掛ける。
その隙間から、鳥たちのさえずりの声が聞こえ、昇る太陽が近いのかうっすらと光が入り込み、玄関を映し出す。


うららが花火大会に履いていた下駄がコロンと転がり、その横には店で着替えたのか真っ赤なハイヒール。
そして見慣れない大きなスニーカーが乱雑に脱いだままの状態にあるのをぎゅっと目を瞑り、そっと外に出て静かにドアを閉め、鍵をかける。

この部屋を出るとき、こんな風に出ることになるだなんて思わなかった……

部屋の前で一度向き直り、まっすぐにドアに向かう。

鞄をぎゅっと握り締め、唇を引き結んで、頭を下げる。

「ありがとう……ございました」



顔が中々上げられなかった。
ゆっくりと日が昇って、薄闇だったマンションの廊下に暑さを孕んだ太陽の光が、直接差し込んで横顔を照らしてやっと、顔を上げることができた。
慣れたはずのマンションの廊下が、見慣れないものになった気がした。
エレベータを降りてポストに向かい、鍵を差し込む。
離した瞬間、金属と金属のぶつかる音が、静かなエントランスにやたらと大きくカランと響いた。
一瞬見える視界が、何度目なのかわからないくらいに滲んだ。
どこかで蝉のジジジと鳴く声が聞こえる。
それにつられるようにして、そこかしこで鳴き始め、大合唱へと変わっていく。
動き出した朝の気配に逃げるようにして表に飛び出す。
まるで振り返ることを許さないように背中から照り付ける太陽光と熱に、駅へと向かう足取りは、思った以上に重かった。










閑散としていた朝の風景から、お盆休みとあって人通りが多くなる時間になっても電車に乗ることが出来なかった。
重い足取りのまま駅に着いたのは良かったけれど、それでも切符を買うことが出来ず、ぐずぐずとしている間に人が多くなり、浮き足立った空気の中、急ぐ人々の迷惑になっているような気がして近くのカフェに入ったが最後。
エアコンの効いた店内に根が生えたように動けなくなった。
寝不足と泣きすぎた瞼が重い。
意味もなくかき混ぜるアイスレモンティーはカラカラと音を立てるけれど、氷が解けて小さくなってしまったから、きっと美味しくはないだろう……

どうしよう……

勢いのままに飛び出してきたけれど、これで良かったのか…と不安になる。
きっと……田舎に帰ったら二度とここへは戻って来れない。

それは、両親が……という問題ではなく、自分自身の問題だった。
一度こうやって逃げ出したら、気持ち的に無理だろうということは察しがついていた。
アルバイトとは言え、きちんと挨拶もなく電話だけで辞めることを告げることにも罪悪感が残る。


やっぱり戻ろうか……


カフェの薄いガラス越しに、歩き人々が茹だるような暑さを感じているのが目に入ってくる。
たった一枚のガラスなのに、それを通してみた世界は今の自分のようにひどく現実を感じさせなかった。

戻るほうが勇気がいるかも……

そんな考えの中、どうしよう、どうしようと考えが巡るだけで、一向に行動すべきことが浮かばない。
口に含んだレモンティーは思っていた通り薄くて、水っぽい味に眉を寄せた。


昼近くになり、ランチに入ってくる人が多くなり、さすがに居心地の悪さを覚えてカフェを後にし、街路樹の作り出した短い日陰に入り込んだ。
真上で鳴く蝉の声に、汗が噴出す感覚が一瞬眩暈も連れてくる。
アスファルトから上がる陽炎が、視界を歪ませる。
何度も浮かんでは消し去った人物に意を決して連絡を取ろうと思って鞄のサイドポケットから携帯を取り出す。
部屋に置いた置手紙と呼べるほどのものでないメモと一緒に置いて来ようと思ったけれど出来なかった。
フリップを開けて、電源を着ける。
途端、着信を知らせるバイブがブルブルと震え、着信履歴にうららの名前がずらっと並んでいた。
ドクンと鳴る心臓の動きを目をぎゅっと瞑ってやり過ごし、アドレスから目当ての名前を呼び出して通話ボタンを押した。
呼び出し音は一回に満たなかった。
驚異的な速さで携帯に出た人物が叫ぶようにして自分の名前を呼ぶ。

『ユキちゃん!!今どこ?!』



聞こえた声に安堵した。







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