心を開いて 3 それから遅くまで白石が一人で残業をする度、星川は白石の元へ現れては、仕事を手伝ってくれたり、休憩のお茶を入れてくれたりする。 相変わらず資料作りは苦手だけれど、以前よりは早く出来るようになり、おしゃべりをする余裕も一層出てきた。 以前、昭和生まれだと言っていたのを思い出し、誕生日を聞いたら、昭和37年とのことだった。 生きていれば(星川はいつもあやふやにしてしまうけれど)、彼は50歳になる。 井口と同い年になるはずだった。 そして、年齢は28歳ということだから、1990年、彼はバブル崩壊と共にこの世を去ったことになる。 道理で趣味に金がかかるわけだ。 あの頃のことを詳しく知っているわけではないけれど、聞いた話によれば都会ではタクシーを捕まえるのに1万円札を数枚振り回しながら捕まえたということだから、今では想像出来ないくらい派手な時代だったらしい。 一度、今は夜の間しか動くことは出来ないけれど、以前は昼間も活動できたのだから色んなところへ行ってくれば良かったのにと言うと、 「縄張りがあるんだよ」 と返事がきた。 「他人が自分の縄張りに入ることは嫌がるものだろう?どこの世界も同じなんだ……まぁ、人は結局欲深い生き物なんだよ……いや、欲深いから未だに未練があって、居座り続けるのか?」 こんな風に、時々、深いことを言ったりもする。 そして、ふと星川にも何か未練があるのだろうか?と思った。 そう、出会ったなら…… 白石の亡くなった祖母はよく言っていた。 「人と人が出会うにはそれなりに意味があるんだよ。相手から受け取るものもあるだろうけれど、相手に与えるために出会うこともあるんだよ」と。 彼の魂がこうして白石の前に現れるには何か縁があって、その未練を断ち切るために白石に出来ることがあるのだろうか? 「縄張りがあるってことは、他にも……その、いる……ってことですよね?」 恐々として問いかけると、 「もちろん」 自信満々に答えられ、白石はやっぱり……と怖くなる。 「じゃ、じゃあ、このビルにも他に……」 「もちろんいるよ!」 続けてどこに何がいるのかを言いかけた星川の雰囲気を察して、白石は「言わなくても良いです」と慌てて言い放った。その勢威の良さがおかしかったのか星川は随分と楽しそうに笑っていた。 「僕はてっきり、君は僕以外の誰かも知っていると思ったよ」 「知りませんよ。今まで一度だって、こういう経験はないんです」 今の状況をどう捉えて良いのかわからず、もじもじと指先を持て余しながら答えると、「へぇ〜そうなんだね」と何かを含むような返事の後、すっかり馴染んだ物さしでぽんぽんと優しく肩を叩かれた。 そんな仕草に何となく居心地が悪くなって、照れを隠すように質問を続けてみる。 「し、昭和37年生まれって言うと、就職してもパソコンは普及してませんでしたよね?」 「うん、そうだね。今はどこの企業にも当たり前にあるようだけれど……そうだな、パソコンが普及したのは、ここ15年くらいのことだよ」 「そうなんですね……じゃあ、僕に教えてくれているのって、どうやって覚えたんですか?」 「それは、昼間に活動が出来ていたころに色んなところで見て覚えたのさ。経理課の女の子たち……中原さんたちはテキストや参考書みたいのをたくさん持っているからね。見た目じゃわからないけれど、勉強熱心なんだ。ちょっとしたことで効率が上がる。何時間も掛かっていたことが数分で出来るようになるんだ。まるで魔法みたいだった。それで面白そうだったから、ちょっと拝借して、夜中にこっそり試したりしてたんだ」 「でも……もともと仕事が出来たんでしょう?」 僕と違って……続けて出てきそうになる言葉を飲み込んだ。 だけど、星川は「とんでもない!」と声を張り上げたから二重の意味でびっくりした。 「僕らはバブル時代に就職活動をしたんだよ?内定をもらうと、会社が研修旅行に連れて行ってくれるんだ。避暑地やリゾート地にね。それで会社を選ぶ輩がいたくらいだ。どこの会社も社員が欲しくて仕方なかったのさ。他の会社に就職出来ないようにするためなんだよ。今みたいにパソコンやコンピューター、それに製造業のロボットなんてものが少なかったから、人の手はたくさんいった。全部人の手でするんだからね。こういう資料だって、良くてワープロかな……あとは、手書きにしたり、イラスト集を本屋で買ってコピーして切って貼ってして使ってたんだよ」 そんな時代があったのか……でも、そう言えば、学校には確かにイラスト集の本があって、学級新聞を作るときなど先生がそうやって作っていた記憶がある。 簡単に就職で来てしまうことを羨ましがる一方で、今に比べれば作業は不便で大変だろうと思った。 「それに、時代が良かった。作れば売れるんだ。そこそこの物なら大量に作れば大量に売れる。大量生産の大量消費時代だ。環境に良い物を……なんて言われなかった時代だからね。だから、仕事が出来なくても良いんだ。失敗しても“次に頑張れば良いさ”ってな具合でね。“キャッチーでナウいもの”なら何でも良いんだ。今みたいにきっちりリサーチをして数字を弾きだして、どの世代にどんな感じでアプローチをして、どういう風な戦略の下、この商品を作り出すのか?売り出すのか?その後何度も試作を繰り返して……なんて大概の人はしていなかった。そういう意味では……仕事ってものの本質は、君たちの世代のほうがきちんと捉えていると思うよ」 「でも、今は僕に教えられるくらいまでになっているじゃないですか?」 「そうだね。努力の賜物だ」 どこか誇らしげに言う星川に白石ももっと頑張らなければ!と気合が入る。 井口も星川のように少しでも勉強をしていてくれたら…… いつまでも“先輩”ではなく、何かしらの役職についていただろうに。 こんな感じで少しずつ星川の情報を月日と共に積み重ねていく。 そうして……その情報と比例して星川の存在が目に見えるようにもなった。 最初は、真夏のアスファルトの陽炎のような感じで、初めて見たときは疲れ目かな?と思うほどにあやふやなものだった。それが星川だと気づくまでには、けっこう時間がかかった。物さしのあるところに陽炎が浮かぶ。なんでだろう?と思い、星川に聞いたところ、「僕がここにいるからだよ!」と大いに喜んだ。そうして物さしが無くとも星川の存在がわかるようになり、最近になって白と黒だけど影に色がついて向こう側が見えなくなり、感情に伴って変化するようにもなった。 このまま行くと……星川の姿が見えるようになるのかもしれない……そんな風に考えるようになった。 あの晩、白い靄に覆われて霞んで見えた星川の姿。 声にあの日の姿を重ねて想像してみても、顔の部分は真っ黒く塗りつぶされ、鮮明に浮かび上がることはない。 空中に浮かぶ煙で出来た感情の塊。 それが星川という人間の形になり、顔を見て、仕草を見て、想像したものではなく、目でも見える形で…… そうなったら良いのに…… だけどそう願う一方で、この関係の終着点が、白石が人生をまっとうするまでの長い時間続いていくとは思えなかった。 いつかは消えていなくなる…… それも近いうちに…… そういう予感を白石は捨て去ることが出来ず、またそれが星川の姿を鮮明に見せることの出来ない理由のようにも思えていた。 「すずらん」と書かれた木の看板は、アイビーの星型の葉に隠れるように設置され、長年の雨風で読みにくくなっている。レンガ作りの外観に古くて重い木製のドア。押すとカランカランと古めかしいドアベルの音が響く。そうしてすぐに、奥からいらっしゃいませと声が聞こえる。 昼には少し早い時間。 客は一人もいなかった。 営業の外回り特権を使って、早めのランチにカフェと言うよりも喫茶店と言った方がしっくりくる小さな店に足を運んだ白石は、慣れた足取りで窓際の一番奥の席に着く。 「いらっしゃい、白石くん」 カウンターの中でフライパンを振るい、上がる炎に怯むこと無く額に汗を浮かべ、輝くような笑顔を向けてくる女性主人こと瞳さんに白石も「こんにちは。今日の日替わりは?」と気さくに声をかける。 「今日は、白石くんの好きなハンバーグ」 「やった!じゃあ、それで」 子供のようにはしゃぐ白石に笑みを深くして、瞳さんは「はいよ」と返事をしてまた作業に戻る。 ジューっと音を立てるフライパンが香ばしい匂いを立ち上げる。 ついつい匂いに釣られて瞳さんの動きを見ていたけれど、手持ち無沙汰にしていると“急かしている”と思われそうで、入り口の近くに設えられた本棚に適当な漫画本を取りに行く。 歩く度にミシリミシリと軽い音を立てる板材の床。 カウンターが6席に4人掛けのテーブル席が3席の小さな店だ。 ダークブラウンの木目が浮かぶ家具を基調にした店内は、大通りに面した大きな窓から明かりが入り込み、その陽射にアクセントで置かれたいくつかの観葉植物の葉が緑に輝いている。 瞳さんの人柄とこの雰囲気が白石は好きで、週の半分はここのランチを食べに来るほどだ。 大学入学とともに実家を離れ、一人暮らしをしている白石にとって、瞳さんは第二の母のような存在だった。 いや、白石だけではなく、きっとこの辺りの社会人は、この瞳さんに相談したり、悩みを打ち明けたりして、色々な困難を乗り越えてきたことだろう。 本を片手に席に戻り、漫画本を開くけれど、何度も読んだ話に早々に飽きて、窓の外に視線を向けた。 白石の働く会社の雑居ビルが大通りを挟んで建っている。 そう高いビルではないから屋上までがよく見える。 ……と言うことは、屋上からもこの店が見えるんだろうな、きっと。 星川はいつも夜になると屋上に現れると言っていた。 どうしてなのかは彼にもわかっていないらしい。 思い当たることはないか?と何度か問いかけてみたが、答えはいつも「わからない」だった。 その時々の会話のことや星川の声の様子を思い出しながら、昼間は出て来られないと言っていたのに屋上を見つめてしまう。 当たり前だけど、昼休みでもないから人影なんてものはひとつも見えない。 ましてや星川の姿など見えるはずもない。覚えのある錆びた鉄柵だけがどんよりとした空の下にあった。 カランカランと来客を告げるベルの音と瞳さんの声が響き、現実へと戻される。 直後、意識を取り戻した耳に通りを走る車の喧騒や街のざわめきが入ってくる。 そういうものに囲まれると星川の存在が夢のように儚く、そして遠いもののように思えた。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |