心を開いて 2





額に何か冷たいものが置かれてうっすらと目を開けた。
震えるまつ毛の向こう側に見慣れたフロアの景色が薄ぼんやりと広がっていく。
蛍光灯は点けっぱなしだった。
どうやら椅子の上に姿勢を正して座っているらしい。
徐々に覚醒する脳より先に、

「気がついたかい?」

と、声が聞こえてきた。
その声に一気に白石の思考は働き始める。
額に置かれた濡れタオルをひっつかむ。
危機を察して、呼吸が急激に荒くなり、体温が上昇する。
その気配を察したのか「待て!待ってくれ!また気を失われたんじゃかなわない」と慌てる声が聞こえる。

「大きく深呼吸をして……そう、吸って……吐いて……また、吸って」

言われるがままに呼吸をすると、幾分落ち着きだし、体温も下がり始める。
それでも普段の倍くらいは活動をしている。
ついでに良く本などで書かれている通りに今度は自分の頬を抓ってみる。
痛いだけで、声にも「そんなことをしても夢ではないんだよ」と呆れられる。
はぁと言う溜息の後、

「どういう訳か僕は物には触れるけれど、人や動物には触れることが出来ないんだ。だから君の体勢を整えるのに物さしを使わなきゃならなかった。本当に大変だったんだよ。後で体中が痛くなっても僕のせいにしないでくれよ」

おどけるように言われ、脇の辺りが何となくヒリヒリとしないでもないことに気づく。
物さしで力任せに引き上げたれたら多分こんな感じだろうと思った。
そのままデスクの上を見れば、使い込まれた竹で出来た30cm物さしが転がっている。
小学校に入学した時に学校から購入させられたもので、裏にはぎこちない平仮名で『しらいしはじめ』と書いているものだ。
母親と一緒に幼かった白石が書いたもので、壊れることがないから未だに使っていた。
それを思い出し、更に心は落ち着きを取り戻す。
掴んだままになっていたタオルを机の上に置き、一息吸い込んで、質問をしてみることにする。
要は、観念して受け入れることにしたのだ。

「あ、あの……」

「なんだい?」

声は、白石を驚かさないようにそっと後方から掛けられた。
それでもドキッとするけれど、気を失う前ほどではなかった。

「僕はどれくらい……」

「気を失っていたかって?」

後を続けるように問いかけられ、コクリと頷くと、「10分くらいじゃないかな?今、12時過ぎってところだから」とやや近寄りながら言われる。

身構えることはない。
今のところ、危険は感じないから。
でも……油断はしちゃダメだ。

「そうですか」

そこで白石は掛けていた椅子の向きをくるりと変える。
声のした方を向いたのに何も見えなかった。
不意をつけば、相手の姿が見えると思ったのに。

「僕を探してるの?」

せっかく振り返ったのに声は後ろから聞こえて来た。
また椅子の向きを変える。

「はい」

「見えないよ」

また後方から聞こえる。

「そんなことはありません」

ムキになって、くるくるくるくる向きを変えてみたけれど、目が回るだけで一向に姿は見えない。


「な、なんで……?昨日は見えたのに」

「見えたっ!?」

もし今の声の状態を見ることが出来たなら、舞台で大げさに演技をする俳優のようだったろう。
しかし、悲しいけれど声の姿は見えない。
でも、調子だけで何となく伝わるものがある。

「君!今、僕が見えたって言ったのかい?!」

「は、はい」

顔のすぐ前で言われた。
しつこいようだけど、見えていたら、きっと白石の両肩に手を置き、グラグラと揺さぶるようにしていたことだろう。
声だけが相手だと、動作が伴わないから物足りないというか、落ち着きが悪いというか……とにかくおかしな感じだった。
しかし、声はそれどころではないらしい。

「……そう、なのか」

少しだけ喜びをにじませた感じで言ったかと思えば、「いや、それではやっぱり……」などと己の考えを打ち消してみたり……
とにかく自分のことで精一杯らしい。
だけど、これだけは答えてもらわないと困る。
このまま消えてしまわれたら、すっきりしない。
26年生きてきて、今まで遭遇したことはないからわからない。
それでも存在を信じつつも現実との比較でいないかもしれないけど、いるかもしれないと思ってきた。
それが目の前にいるのかもしれない。
興奮と恐怖を抱くけれど、ただ怖いと思うだけではない何かが声からは感じられた。
だからこそ、それだけは、はっきりさせて置かなければ。

「あの……」

「なんだい?」

すぐに返答をするあたり白石の存在は忘れていないらしい。

「その……つまり、あなたは」

「僕?」

「はい、あなたはゆう」

「ああ待って!自分で説明をするから……だから、その言葉は言わないでくれ。認めたくないんだ」

すごい勢いで言葉を遮り、白石の周りをぐるぐると回っているようで、色んな方向から声が聞こえた。
いや、多分、白石の言葉を聞きたくないのだろう。
そうして、今度は声の呼吸が激しくなる。
さっき白石に教えたように吸って吐いてを繰り返し、呼吸を整える。
そうして、やっと決心がついたのか

「僕は」

と言って言葉を切った。
そこで白石は自分が考え、導き出した答えを望み、それでも外れてくれと思いながらも当たるであろう期待を胸に次の言葉を待った。
しかし、声は、

「星川怜と申します」

唖然とした。
決して名前を聞きたかったわけではない。

「年齢は28歳」

それも別にどうでも良い。
だけど、2つ違いであることに気づき、あと2年でこれほどまでの仕事が自分に出来るようになるだろうか?と不安を抱いてみたりした。

「趣味は旅行。旅先でスキューバとスキーが出来れば最高だ」

お金の掛かりそうな趣味だなと思う。
まだペラペラと話しているのを無視して、白石は別のことを考える。
星川と名乗る声は、決して自分が“あれ”であること認めたくないらしい。
だけど、多分“あれ”だと思う。

そう思っていて、すっかり白石は忘れていた。

「仕事は何をしていたのかさっぱり思い出せないんだ。でも昭和生まれだよ」といっているのを遮って、「ありがとうございました」と言ってみた。

「え?」

「いえ、昨日、資料を作って下さって……」

「いや別に」と返す星川の声を聞きながら、忘れていたことをもう一つ思い出した。

「資料っ!!」

「ああ、まだ作りかけだったね」

「すみません!教えて頂けますか?そうすれば今夜中には出来上がると思うので」

勢い込んでそう言えば、星川は「いいよ」と言った後、早速、井口の置いていったファイルの一冊が浮かび上がりペラペラと捲られる。
その様をじーっと凝視していると、ページが捲られるのが止まった。
何となく、星川がこちらを見ているような気がした。

「さっき……君は僕が見えたと言ったよね?」

「はい……うっすらと霧がかかったみたいな感じでしたけど」

そうしてできる限り大げさにならないように記憶の中の星川の姿を語る。
話し終えると、

「多分、僕だろうね。君の資料を昨日の夜に作ったのは僕だから。それにしても……初めてだ」

「何がですか?」

「瞬間だったとしても僕の姿が見えたり、こうして話が出来る人が現れることが、だよ」

そう言われると、少し嬉しいような気がしてくるから不思議だった。
さっき失神した人間とは思えない、と自分でも思っておかしくなる。

「あ、そうだ」

「何ですか?」

「君の名前を聞いていなかった」

「白石です。白石一です」

「そうか、白石くんか……じゃあ、教えてあげるからパソコンを見て。僕は結構厳しいよ」

その言葉に「はい!よろしくお願いします」と真夜中とは思えないほどの返事をした。





「あの……」

どこにいるのかわからないと思うから……と星川は物さしを握って教えてくれていた。
時折冗談のように物さしでペシリとされるけれど、先ほどの言葉ほどは厳しくない授業を受け、徐々に打ち解けた雰囲気になったので、白石は質問をしてみることにした。
ちなみにこの時、すでに午前2時過ぎ。
空中を漂う物さしを見たら、世間では丑三つ時のなんとやらで大騒ぎになるだろう。

「なんだい?」

「星川さんが……その、今の状況になるには、それなりにいろんな過程があると思うんですけど……」

かなり遠まわしで気を遣った言い回しになる。
だって、星川は自分が“あれ”だと言うことを認めたくないようだったから。

「ああ、そうだね」

ペラリと資料のファイルが捲れられる音がしてから、星川はあっさり「覚えてないんだよ」と言った。

「え?」

「覚えてないんだ。気がついたら、僕はこうなっていた」

「そんな……」

「あ、ほら手が止まっているよ。ここにこの関数を入れたら、ここの表とこのグラフが繋がるんだ」

「あ、本当だ」

一つ一つレクチャーされながら、質問し、それに星川がぽつりぽつりと答える。
何となくだけれど、白石はこの時焦っていた。
実は星川が今日限りで姿を現すことがなくなるのではないのかと思っていたからだ。

「でも、最近おかしいんだ」

そう星川に言われたときも、必死に関数を使っていたので「おかしいって?」とぞんざいな返答をしていた。

「前は、昼間も動き回れたんだよ。縄張りみたいなものがあるから制限はされるけど、そこそこは勝手に好きなところに行って、好きな光景をみることが出来たんだ。だからこうして君に資料作りを教えてあげる事ができるんだけどね」

それを聞いて、星川が今日限りでいなくなると言うわけではないようで、安心した。
動かしていた手を少し緩める。

「ほら、あの、経理の派手な女の子がいるだろう?」

「あぁ……中原さんですか?」

「そうそう、その中原さん。君が気を失う前にも言ったけど、彼女はなかなか優秀なんだ。見た目が派手なだけで仕事はきっちりする。だけど、総務のお局さんはそこが更に気に入らない。どうして女って生き物は自分が一番じゃなきゃ気に入らないんだろうね?まぁ派手だと言えば、お局さんの方が化粧は派手だけど」

「確かにそうですね!」

安心したからか、徹夜中だからか、ちょっとだけ気分がハイになって笑いが漏れる。
そうして、次にしーんとした沈黙が訪れた。
エアコンのブーンと言うモーター音がフロアに響く。

「おかしいんだ」

もう一度星川がそう言った時、白石は物さしの辺りに目を向けた。
聞いているよ、と言葉ではなく、態度で示したかったからだ。

「ごめんね、遅い時間なのに……でも、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない」

今度こそ、キーボードから手を離し、体ごと物さしの方へ向ける。

「最近、僕は夜明けに闇の中に引きずり込まれる」

「引きずり込まれる?」

「そう。何かにぎゅーっと引っ張られるようにして、暗闇の中に吸い込まれるんだ」

「そ、それで」

「そして、気がついたら夜になっていて、ここビルの屋上にいるんだ」

「屋上?」

「そう、屋上に」

すぐに思い浮かんだのは飛び降りでもしたのだろうかということだった。
だけど、星川がいつこの状態になったのかは知らないけれど、そんなことがあれば、未だに語り継がれていそうなものだけれど、入社して4年になるけれど、まったく耳にしたこともなかった

「他にはないですか?」

「……あるよ」

「何でしょう?」

「白石くんと話しが出来るようになった。昨日から君には僕の声が聞こえているようだから」

その声は本当に心の底からの嬉しさが滲んでいて、聞いている白石も嬉しくなった。

「今のところ、そんなことかな?」

星川のその声を合図に二人は資料作りに専念する。
そうして、夜が明けるほんの少し前、資料は完成した。

「ありがとうございました」

「いやいや、役に立てて良かったよ」

どこまでも謙虚な言葉に星川の人となりが見えるようだった。
そして、窓の外はうっすらと青くなり始める。

「じゃあ、また」

その言葉と同時に、机の上に物さしがガランと落ちる。
本当に星川がいなくなったのかどうかはわからない。
急に冬の朝特有の冷え込みが訪れたような気がした。
白石の心の中にもちょっとした寂しさが吹き抜ける。
だけどそれ以上の眠気に襲われ、少し離れた場所にある応接スペースに置かれたソファに辿り着くなり、倒れるようにして深い眠りに入っていった。







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