心を開いて 1





そろそろ休憩を入れようと思って見上げた時計の針は、日付が変わる少し手前だった。
どうりで他に人の気配がないはずだ。
いつの間にか照明も自分のいるところだけとなっている。
帰宅する何人かに労いの言葉を掛け、また逆に掛けられた記憶はあるけれど、無意識だったらしい。
そうやって視覚や聴覚で認めた瞬間に疲労の色は濃く浮き彫りとなる。
目頭を抑え、首を左右に振ると、気持ち良いくらいポキポキと音が鳴った。
会議の資料作りなんて未だに慣れない仕事で偉く肩が凝っているらしい。
両手の指を首の後ろで組んで大きく伸びをした。
強張った筋肉を伸ばす痛みに呻き声を上げていたところで、気配もなく後ろから声がかかった。

「そろそろ休憩がしたいんだろ?」

湯気を伴った湯のみがコトリとデスクの隅に置かれる。
もう慣れてしまって驚くこともなくなった。
白石は芳しい香りを湯気と一緒に一息吸い込んだ。

「ほうじ茶ですか?」

「そうだよ。コーヒーよりもお茶が良いかなと思って」

「ありがとうございます。……でも、そろそろかな?って思ってました」

首を上げて笑いかけると、何となくボワンとした影がゆらりと揺れる。

「そうかい。じゃあ、僕は君の役に立っているんだね」

そう言って、影が白っぽくなって天井の辺りで揺れが大きくなる。
喜んでいるらしい。
白石は温かい湯のみを両手のひらの中に入れ、冷ますようにふうっと息を吹きかけて一口ズズッと啜った。
香りから判断した以上の香しさに体の内側から綻んでいくように感じた。

「美味しい……星川さんは飲まないんですか?」

問いかけに影は別の揺れ方をした。
ふわんというよりもドロンとした感じに。
それで気づいた。
またやってしまった!と思っても、もう遅い。

「……君は案外意地が悪いな……僕が何も口に出来ないと思ってそんな意地悪を言うんだろう?」

影が濃くなる。というよりも、黒くなった。
これはやばい!

「いやっ、あのっ……ええっと、別にそう言う訳ではなくてっ……つい、声を聞いていると、普通の」

「普通の?」

「……あっ……」

火に油を注ぐとはこのことだ。
焦っているから余計に状況が悪くなる。

「普通の人みたいに?僕が普通じゃないから?君はそう言いたいのかい?」

どす黒くなっていく影に怯えて震えると、手の中の湯のみが傾き中身が少しだけこぼれた。

「あつっ」

「ああ、ああ……ごめんごめん、脅かし過ぎたね」

まるでそんな風に思っていない謝罪の言葉と同時に、ふわりと布巾が目の前に現れる。

「いえ……僕が……」

布巾を受け取りながら謝罪の言葉を言おうとするのを断ち切るようにして影が言った。

「まぁ、それは……仕方ない。それより、それは終わりそうなのかい?」

布巾でズボンを拭いていた白石の手が止まる。
見上げるとさっきまでのどす黒い塊はなく、いつも通りのぼわんとした影になっていてホっとした。

「……半分……ってところでしょうか?」

「じゃあ、わからないことがあったらいつでも聞いて」

「あ、はい」

影がゆらゆらと天井付近に上がっていく。
徐々に薄く、消えながら

「夜明けまでにね」

そう言い残して、跡形もなく消えてしまった。










影こと星川との出会いは半年ほど前に遡る。
クリスマス前の冬の事だった。
今夜みたいに慣れない資料作りの残業をしていた。
昼間の外回りがたたったのか、白石はどうにもこうにも眠たくなり、5分だけ……と自分に言い聞かせて、目を閉じた。だけど、コクリコクリと舟を漕いでいた首がグランと大きく揺れ、倒れてしまう前に本能が回避した行動、つまりは机に突っ伏して、どっぷりと深い夢の中へと入っていくのにそう時間はかからなかった。
そうしてどのくらいが経ったころだったのか……
キーボードをパチリパチリと叩く音と、時折マウスがデスクに擦れる音でうっすらと意識が覚醒した。
いや、この時、白石はまったくの夢の中の出来事だと思っていた。
薄く目を開けると蛍光灯の灯りに煌々と照らされ、視界が白っぽいもので覆われていた。
その中にスーツを着た男性がぼんやりと見える。
寝起き特有のはっきりしない視覚。それも夢の中の出来事だと思っている。


スマート


感覚的にそう思った。
白い靄の中で、その男性がスマートだということがわかった。
体つきもそうなのだろうけれど、それ以上に雰囲気が、と言った方が良いだろう。
はっきりとは見えないのだから。
そうして、その男性は白石の方を見ることなく

「寝ていると良い。僕が仕上げておくから」

そう言って、漸く白石の方を向く。
優しそうな笑みを浮かべ、白石の肩の辺りをぽんぽんと叩くような仕草をした。
今思い返しても、その時、白石の体に星川の手が触れた記憶も感覚も残ってはいない。
だけど、何だか妙に安心してしまって、

「おはよう。お兄ちゃん、徹夜かい?大変だったねぇ」

契約している早朝の清掃のおじさんに肩を揺すって起こしてもらうまで白石は眠り込んでいた。


「えっ!?あっ……あああああああっ……」

資料のことを思い出して飛ぶように起き上がり、大きな声を出した白石に掃除のおじさんがびっくりする。

「な、なんかまずかったかい?」

「いやっ……あのっ……その……あああああああ……いや、起こして下さって、助かりました……」

落胆を大きく含み、徐々に小さくなる白石の声に、おじさんは何をどう解釈したのか、

「仕事だって言っても信じてもらえないかもしれないね……でも、浮気したって証拠が出る訳じゃないから大丈夫だ。それに、もし会社に踏み込んできても、おじさんがきちんと説明してあげるよ。そう心配しなさんな」

ぽんぽんと肩を叩かれ、言いたいことだけを言ってフロアから出ていくおじさんの背中を「何を勘違いして」と心の中で呟きながら見送っていると、深い記憶の中で何かがキラリと閃いた。

肩を叩く仕草……

ハッとして、白石は急いでパソコンを立ち上げる。
そう遅くもない起動タイムが遅く感じるほどに焦っていた。
眠りに就く前、資料作りは思っていた半分も出来ていなかった。
朝一番の会議で、その資料を元に新規事業の提案の説明をすることになっていた。
焦りと、一抹の期待を抱き、心臓はドクンドクンと早鐘を打つ。
漸く立ち上がったディスプレイに、その資料のアイコンが見える。
マウスを操作する指が震える。
焦ってダブルクリックどころか、トリプルもクワドラブルもクリックをして開かれた資料は……




「……出来てる」




出来上がっていた。
血走った目で資料全体を見てみると、白石が作ろうと思っていた資料以上の出来になっていた。
他社との比較のグラフも、数字を打ち込んだ表も、どれもこれも比較対象や数字が明確で見やすいものとなっている。



じゃあ、あれは……夢じゃなかった……



白い靄の中に浮かび上がる人物。
あの人が白石の代わりに作ってくれた。
そうとしか思えなかった。
夢ではなかったのだ。

だけど、どう思い浮かべても、あの人物は白石の記憶の中になかった。
あんな人がいたら、決して忘れることはないだろう。
靄の中でもわかるほどだから、実際目にしていたら、決して忘れられないはずだった。

誰だったんだろう……

記憶に思いを馳せていてもさっぱりわからない。
わからないけれど、助かったのは事実だった。
心のなかで「ありがとう」を数えきれないほど唱え、その資料を使わせてもらうことにした。


そうしてその夜


「白石!あんな見やすい資料が作れるなら、このデータもちゃちゃっと作ってくれよ」

終業間際のフロアに横柄な態度で有名な先輩の井口の声が響く。
今年50歳になる彼を“先輩”と呼ぶのは、彼が未だに役職に就いていないからだ。
そして、いつまでも若くありたいと願う彼の願望でもあって、みんなに“先輩”と呼ばせている。
そんなことだから余計なことは受けたくはないとばかりに帰宅の用意をしていた他の社員たちは帰り支度を早めた。

「えっ!?」

「……出来ないのか?」

「いや、あの、そのっ……」

出来ないとは言えない。
でも実際によく出来た資料は白石が作成したものとして配布してしまった。
課長も、部長までもが煙たがっていた新規事業に乗る気になったほどだ。
だけど、出来れば断りたい。
だって、あれは白石が作ったものではないのだから……
もし受けたとしても同じようなものが出来るはずがなかった。
それなのに、井口ははっきりとしない白石の態度に近くまで歩み寄り、数冊のファイルをぞんざいにデスクの上に放り投げるようして置いた。

「取引先の資料なんだ。まとめて欲しいって言われてたんだけど、俺じゃ出来そうにないからな。白石が作った方が受けが良さそうだし」

……だから未だに“平”なんだよ!

そんなことを思って、デスクに置かれた資料に視線を落としている間に「じゃあよろしくな」と言い置いて、井口は早々に帰宅してしまった。

ギシリと音を立てて椅子の背もたれに体重を預けて天井を見上げる。

使わなければ良かった……
あんなよく出来た資料。
使わなければ、こんなことにはならなかったのに……


吐き出した大きな溜息が重力に逆らうことなく己の顔の上に被さるようだった。
思ったところで資料が出来るはずもない。
もう一度大きな溜息を吐き出して姿勢を正し、今朝の資料を元に同じように出来ないかと格闘しながら取り組むことにした。





疲れを感じて、ディスプレイから目を上げる。
疲労に霞む目で見上げた時計の針は、日付が変わる少し前だった。

「……出来ねぇよ……はぁ〜」

溜息と共にぼそりと弱音を吐き出した声は、薄暗いフロアに吸い込まれるようにして消えていく。
どうやっても同じような資料が出来ない。
今朝の資料を広げ、関数を見てみるけれど、どこの表とどのグラフをどのように繋げているのかもさっぱりわからない。
コピーして使ってみたけれど、エラーを表す#が並ぶだけで、お手上げ状態だった。
おまけに今日帰れなかったら2日帰っていないことになる。
いくら汗をかくような季節ではないにしろ、濡らしたタオルで拭いただけの体も気持ち悪かった。

「そろそろ休憩がしたいんだろ?」

掛けられた声が誰もいないはずのフロアに響く。
びっくりして体を跳ねさせ、辺りをキョロキョロと見回すけれど、人の姿はない。

「だ、誰?」

裏返るような白石の声に、クックックと低い笑い声が聞こえる。

「コーヒーの方が良かったかな?」

今度はデスクの隅に湯のみがコトリと置かれる。
だけど、それを置く手は見えなかった。
状況が把握出来ず、霞む目を強くこすってみる。
また夢の中にいるのかと思ったのだ。

「そんなことをしても僕を見ることは出来ないよ」

笑みを含んだ声は右の耳のすぐ後ろからささやくように聞こえた。
白石は動きを止める。
いや、脳の活動にすべてを使っていて、他の体のパーツまで動かすことが出来ないからだ。

これは……何だ?
どういう、状況?

怖くて振り向くことは出来なかった。
気配は感じ取れる。
だけど、実際の人のような感じではなかった。
何か軽いものがやや斜め上から話しかけている。

「ああ、その資料ね。役に立ったかい?おや?また資料作りを頼まれたのかい?君は苦手なのにね」

動きを止めた白石のことなどまったく気にしない風に声は話しかける。
声は右に行ったり左に行ったり、人では決して出来ない方向から聞こえたりもする。
おまけにデスクの上にあったパソコンが何もしていないのに勝手にキーボードを弾き始める。
マウスも勝手に動く。

「ほら、ここはこの関数を使うんだよ。経理の女の子が先日同じ関数を使って処理をしているのを見たんだ」

得意気に聞こえる声は、真正面、つまりディスプレイと白石の間から聞こえてきた。
もう、そこが限界だった。
白石の体は急激に体温を上昇させ、目の前が真っ暗になる。
そう、白石の体は危機を脱するために失神してしまったのだ。







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